2014年05月21日

[TUP速報976号]シーモア・ハーシュ、インタビュー:シリア化学兵器事件の背後関係

速報976号 シーモア・ハーシュ、インタビュー:シリア化学兵器事件の背後関係
投稿日 2014年5月21日

◎ シリア情勢に大きな影を落とす米国の影響

国連難民高等弁務官事務所の発表(2013年現在)では、すでに100万人以上がシリアを離れ難民となったとされるように、混乱の続くシリアの情勢は昨年、化学兵器の使用で多数の一般市民の犠牲者が出るにいたり、米国をはじめ多くの国々を含めた国際関係を緊張させました。

ピュリッツアー賞を受賞した調査報道記者のシーモア・ハーシュは先月、新しい論説「レッドライン・アンド・ラットライン」を発表し、シリア情勢に大きな影響を与えている力を読み解きました。アメリカの独立系メディア「デモクラシー・ナウ!」のエイミー・グッドマンがシーモア・ハーシュを番組でインタビューし、化学兵器使用とトルコの関係、武器の調達ルートと米政府との関わりなど、シリア情勢に関する彼の新しい論説について尋ねています。

(前書き、翻訳 キム・クンミ/TUP)

エイミー・グッドマン:
シリアが国連の監視下で化学兵器武器庫の廃棄作業を続けているなか、ピューリッツァー賞受賞のジャーナリスト、シーモア・ハーシュは新しい論説で、昨年シリアのグータ市で化学兵器攻撃により何百人ものシリア人が亡くなった事件に疑問を投げかけています。米国をはじめ、国際社会の多くの国々はアサド政権に忠実な軍を非難し、米国はもう少しでシリアを攻撃するところでした。しかしハーシュによると、オバマ大統領とジョン・ケリー国務長官がアメリカによるシリア攻撃を言い張る一方で、米軍と諜報コミュニティ内部のアナリストは化学兵器攻撃の黒幕は誰だったかについて、内々に米国政府の主張の根幹に関わる疑問を呈していました。

ハーシュによると、米国国防情報局(DIA)は6月19日にシリアの反政府グループ、アル=ヌスラがサリン生産部隊を維持していると述べた5ページにわたる極秘の「論点」ブリーフィングを発行しました。DIAは事件を「同時多発テロ事件以前のアル=カーイダの活動以来、最も先進的なサリン計画」と述べています。DIA文書を引用すると「トルコとサウジに本拠を置く化学ファシリテーターが、シリアでの大規模生産活動を見越して数10キロのまとまった量のサリンの前駆物質を手に入れようとした可能性が高い」。DIAブリーフィングが書かれる一カ月前に10人以上のアル=ヌスラのメンバーがトルコ南部で逮捕され、地元の警察がプレスに話したところによると、彼らは2キロのサリンを所持していたとのことです。

調査報道記者シーモア・ハーシュは今日、ワシントンD.C.から番組に参加します。彼の最新の記事の見出しは『レッドライン・アンド・ラットライン』。ロンドン・レビュー・オブ・ブックスに発表されたばかりです。

セイ (シーモア)・ハーシュ、デモクラシーナウにようこそ、またお会いできましたね。あなたが発見したことを教えてください。

シーモア・ハーシュ:
いまあなたが一部を説明してくれました。DIAのブリーフィング文書で一番重要なのは……。この番組にも出演しましたが、「ロンドン・レビュー」に数カ月前に『サリンは誰のものか』※1――まさにこれが記事のタイトルですが――、を問う記事を書いたのですが、それは、はっきりとはわからない。東グータで何が起こったのかを正確に知っているということではありません。はっきりとわかっていること、軍やペンタゴンやアナリストがわかっていること、という意味ですが、回収されたサリンはシリア政府の兵器庫に存在する種類のものではなかったということです。そのことは、大統領が戦争を起こそうと主張した根本的な要因の1つに深刻な問題を提起します。シェッド文書※2の本当のポイントは、そして何故わたしがこれについてたくさん書いたかといえば、記事を書いた数カ月前の時点で、ホワイトハウスはこの文書について知らないと言っていたし、アル=ヌスラや他の過激派グループ、またはジハード主義グループがサリンを保有しているという情報を持っていなかったと言っていたからです。。

※1 岩波書店の雑誌『世界』2014年5月号で、TUPの宮前ゆかりと荒井雅子による全訳を読むことができます。

※2 シェッドはブリーフィング文書を受け取った国防情報局(DIA)副長官

何が恐ろしいかといえば、軍の内部でも、私が知っているだけでも米国南方軍(SOUTHCOM)などが、この可能 性を懸念していました。ジハード主義グループの一部にとって戦況は不利になりつつあります。明らかに、アル=ヌスラだけでなく他のグループも、トルコの助けを借りて、サリンを製造する技術を持っています。そして恐ろしいのは戦況が悪化すると、このサリン――しかるべく使うと恐ろしいほどのたくさんの人をあっというまに死に至らしめることができるので、「戦略的兵器」と呼べるかもしれない――このサリンが、シリア国外の様々な部隊に送られることになる。言い替えれば、彼らが持っている化学物質が、どこだかわかりませんが、北アフリカ、中東や他の場所に送り出され、我々が直面している対テロ戦争が違った状況になってくるということです。それが現実です。

一方で、ホワイトハウスの立場はまたもや、今回の記事について、彼らが存在しないと主張する文書について、――私がその文書のかなりの部分を記事中に引用しているにも関わらず――私はその文書を読んだのは明らかなのですが――、それでも彼らは依然として「そんな文書は存在しない」と主張しています。この現実から目をそらすやり方は私が記事で書いたことと関係しています。大統領がいったん決定を下したら、変更すること、変更させることはほとんど不可能だと人々が言っていたことを記事に引用しました。シリアがやったと大統領がいえば、皆そう考えること、考え続けることが正当化されてしまい、他に選択肢はなくなる。大統領は現実から目をそらした外交政策を主張してきましたが、一方で、特にシリア政府が(化学兵器を)廃棄している現状で、我々はその化学兵器で深刻な問題を抱えることになる。シリア内部でこれらの兵器を持っているのはいかれた奴だけになる。そういうことになっているわけです。

グッドマン:
「ラット・ライン」とはなんですか?

ハーシュ:
「ラット・ライン」は非公式の呼び名なんです。CIAは…CIAには非常に有能が人が沢山いますよ。私はずいぶん叩いていますけれど、でも、みなさん認めざるを得ないと思いますが、そこには非常に明晰は人々がまだ残っているし、自分の仕事を理解してやっている。イランでの戦闘中、ブッシュとチェイニーはイラン国内に秘密裏の地下核施設があるかどうかを調べることにやっきになっていました。彼らは絶対的に信じていました。パキスタンなどから合同特殊作戦コマンドのおとり捜査チームを、CIAが知っていた密輸と送金ルートを通じて送った。CIAの「ラット・ライン」を使って入り込もうとしていた。

この場合の「ラット・ライン」は2012年初期のことですが、なぜだかわからないけど、たぶん、リビアでカッザーフィ(カダフィ)を追いだせたこと――それはそれで混乱が起こったですが――、勝利したと思っていたことに傲慢になっていて、米国はトルコを通じてシリアの反対勢力に武器を注ぎ込むために極秘作戦を展開しました。送り込んだ相手は世俗主義グループにも、アサド政権に対して正当な不満を持っていた人々にも、そしてシリアに本気でワッハーブ派やサラフィー主義の政府をつくろうと、シリアを乗っ取ろうとしサウジとカタールの資金援助をうけたグループにも。これはまったくの極秘作戦でした。長い時間がかかりました。ベンガジ(リビア)の領事館が制圧されて初めて終了しました。私が書いたように、米国議会にも内緒で行われていた。我々でさえもそれを知ったのは、最近の上院情報委員会からの、数カ月前に安全保障などを問題にして発表されたベンガジについて報告があったからです。共和党が常に話題にしている問題ですが、そこにはこの武器を注ぎ込む課程について説明した秘密の付属書がありました。それは実際にトルコから、サウジやカタールの資金を使って実行された。我々は彼らのカネを使って武器を購入し送り込んだ。CIAはこれに深く関わっていた。

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ラベル:アメリカ
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2014年05月14日

[TUP速報975号]ウォルデン・ベロー:人道介入がはらむ危機

速報975号 ウォルデン・ベロー:人道介入がはらむ危機
投稿日 2014年5月14日

◎地獄への道には善意が敷き詰められている

今年4月に20年忌を迎えたルワンダ大虐殺が一つの契機となって、「保護する責任」という理念が打ち出されました。一国の政府に集団虐殺などの重大な人道危機を食い止める力や意思がないときは、国際社会が責任をもって(すなわち武力を行使して)阻止するという、「人道的武力介入」の理念です。しかしこの理念には、外国の介入に口実を与える危険性などが指摘されてきました。特に、前世紀に植民地支配のくびきから解放された南側諸国(先進国が多く集まる北半球に対して、グローバルサウスと呼ばれます)で深刻に懸念されています。以下は、「保護する責任」が初めて適用されたリビア爆撃に際して、グローバルサウスを代表する知識人の一人ウォルデン・ベローが、コソボ、アフガニスタン、イラクでの介入を振り返ってこの理念の問題を指摘し、人道介入がどのように行われるべきかを論じた記事です。3年近く前に発表された記事ですが、「人道的武力介入」を考えていく上で重要な点がまとめられています。(荒井雅子/TUP)

人道介入がはらむ危機

ウォルデン・ベロー
2011年8月9日

リビアとシリアでの出来事によって、武力による人道介入、すなわち「保護する責任」の問題が再び注目を集めている。

国民にとって疫病神である腐敗した独裁政権の打倒をめざす、武器を持たないデモ参加者に思いを馳せない者はないだろう。チュニジアとエジプトでは、市民が立ち上がって自分たちの手で独裁者を追放した。タハリール広場では、武装したムバラク政権支持者が人びとを攻撃し、銃撃さえしたが、軍が独裁者側につかないことを決め、大規模な弾圧は回避された。

その後は、それほど簡単にはいかなかった。リビアの暴君ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)は、デモに参加した市民を厳しく弾圧し、その結果、米国と北大西洋条約機構(NATO)に、空爆と反政府勢力への武器提供による軍事介入の機会を提供することになった。また現在シリアで、反政府勢力が蜂起した諸都市に対してアサド独裁政権が大規模な弾圧を行っているため、介入を求める声が欧米諸国で高まっている。

市民を自国政府から守ることを目的とした軍事介入を国家主権という原則より優先することは、はたして正当なのだろうか。そして正当だとすれば、どのような状況ならそうした展開が正当化されるのか、介入はどのように実行されるべきなのか。

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2014年04月10日

[TUP速報974号]ルワンダ集団虐殺から20年:学んだ教訓と未だ学ばれざる教訓と

投稿日 2014年4月10日

◎大量虐殺を未然に防ぐためには?
国連事務総長からのメッセージ


この4月7日は、1990年代前半のアフリカのルワンダ紛争末期のルワンダ集団虐殺が始まった20周年にあたります。わずか3カ月の間に、死者数だけでも、当時のルワンダ人口の2割に相当する80万人(50〜100万人)に登り、強姦他の犯罪は数知れず、という、第二次世界大戦後では最悪の犯罪の一つでした。外部の人から見ればおよそ見分けがつかないフツ族とツチ族との間の抗争と憎しみがエスカレートした結果と言われます。

戦争遂行の標準的手法の一つに「非人間化(dehumanisation)」があります[†]。普通の精神状態ではとてもできないことが行われるために必要な手段として古今東西広く使われています。不合理で非道徳的な差別を煽るのは、その第一段階でしょう。そういう意味で、最近の日本の排外的風潮、なかでも在日特権を許さない市民の会(在特会)の蛮行には、私は戦慄を禁じ得ません。実際、ルワンダの大虐殺はひとごとではありません。日本でも、関東大震災の際、同じ地に住む隣人(で見た目も同じ)数多くの朝鮮人を虐殺した歴史があります。第二次世界大戦中には、大東亜共栄圏の旗印のもと、(通説)二千万人のアジア人同胞を殺しました。戦争や非常事態の狂気が何を引き起こし得るか、日本人こそ、よく知っているはずですね。

以下、ルワンダ集団虐殺20周年に際して出された国連事務総長からのメッセージを邦訳してお届けします。特に最後の段落は、私たち皆を考えさせる問いかけを含んでいます。
(翻訳・前書: 坂野正明/TUP)

[注†]兵士の非人間化については、イラクからの帰還米兵の証言集『冬の兵士』(TUP有志訳、岩波書店)にてよくあらわれています。TUP速報でも、かつて彼らのインタビューを15回シリーズ速報しました。
http://www.tup-bulletin.org/?post_type=taginfos&p=1436
ご参考までに。

凡例: (原注)[訳注]


ルワンダ集団虐殺から20年:
学んだ教訓と未だ学ばれざる教訓と


国連事務総長 潘基文
2014年4月5日発表

今、中央アフリカ共和国では、政府も地方自治体も、国を平和に導くための道筋を見つけるのに苦闘しています。

月曜日、私は、キガリ[ルワンダの首都]で開かれる集団虐殺の20周年記念式典にてルワンダ国民と席を共にします。その集団虐殺の余韻は、不安定感の漂うアフリカ大湖沼地域一帯で、また国際社会が共有する良心において、今も感じられているものです。

どの事態においても、それ自体の力学というものがあります。毎日新たな犠牲者を出しているシリアの紛争でもそうです。でも、それぞれの事態において、複雑で人の生死に関わる難題が課されます。すなわち、無辜の市民が大量に虐殺されていながら政府が国民を守ることができない、あるいは守ろうとしない時、もしくは政府自体がその暴力の当事者の一員である時、国際社会には何ができるか。そして、そもそもそんな残虐行為が起きないよう予防するために、何ができるでしょうか。

ルワンダとスレブレニツァ[*1]の集団虐殺は、国際社会の失敗を象徴するできごとでした。ルワンダでの残虐行為の規模は振返ってみても衝撃です。死者数が平均一日10000人、それも連日、3カ月にわたり続き、その間、ラジオ放送は憎悪に満ちた言葉でルワンダ人にルワンダ人を殺すよう焚付け、煽り立てていました。

[注*1: ボスニア・ヘルツェゴビナ国内の地名。紛争中の1995年7月に大量虐殺事件が起こった。]

それ以来、国際社会はこれらの恐ろしい事件の教訓を生かした行動を大きく進めてきました。国際刑事裁判所の設立に端的に顕われるように、犯罪人は罰を免れるべからずという点で私たちは今や一致結束しています。ルワンダ国際戦犯法廷を含め、国連も援助する国際的刑事法廷の数々が責任の所在を追及していて、基本的な国際標準を将来犯す可能性がある者への目に見える抑止力となっています。ある画期的な判決では、元国家元首の一人が戦争犯罪で有罪とされました。

国際社会は、今では「保護責任」を承認しています。各国は、非道な犯罪について、それが国内問題であり国際社会が関知するところではないと主張することは、最早できません。集団虐殺を予防することに特化した機構を設立する国々や地域組織の数は増え続けています。国際連合と協力組織は、問題を抱える地域に人権監査チームを展開する機会が増えています。そうした「目と耳」が、渦中の政府、非政府組織、人々に、世界が注視していることを示しています。そして、そのような[大規模]犯罪は計画が必要ですから、私たちは、その鍵となる危険因子、たとえば制度の不備や人々の看過されている不満、に目標を定めて取組んでいます。

同時に、私たちは、はびこる性暴力被害を含め、市民を守るために従来以上にしっかりとした行動を取っています。断固とした平和維持活動方針により、コンゴ民主共和国東部で最も残虐だった民兵組織の一つを打ち負かしました。国際連合は南スーダンにて、死の脅威に怯える何万もの人々に避難の場を作る平和維持活動への門を開きました。20年前、そのような行動は考えられなかったでしょう。今日では、それこそが方針、私たちの「最前線に立つ」という新しい構想戦略が行動として顕われた一例であり、ルワンダの教訓によって実現したことです。これらの状況は今でも脆弱ではあります。とはいえ、方向性は明らかです、すなわち、従来より強固な保護であり逆ではありません。

しかしながら、この活動が後退に直面することも頻繁にありました。スリランカ内戦が2009年に終焉を迎えた時には何万もの死者が出ながら、国際連合は声を上げ行動することがついぞかないませんでした。3年間以上にわたり今に至るまで国際社会は、シリアの状況への対応をめぐって意見が割れ、必要とされる人道的援助費用のごく一部しか供出せず、その一方で軍事的解決に誤って信を置いた結果として当事者両側に武器を提供し、事態の火に油を注いできています。

世界は、これらの道徳上の死角を克服していく必要があります。[国連または世界]構成国は、それぞれ対立する国益があるかも知れませんし、新たな経済的あるいは軍事的貢献をするのに乗り気でないかも知れません。事態の複雑さや危険性の前に尻込みするかも知れませんし、他国での直近の危機についての議論が発展して、そのうち自国の事情に注意が集るおそれがあると懸念するかも知れません。しかし、そうした無関心と決断力の欠如との結果として何が起き得るかは明らかです。無辜の民の流血、社会の崩壊、そしてその後に首脳が発言することになる言葉が「繰り返さじ」、繰り返し繰り返し−−それ自体、失敗続きであることの証です。

過去10年間、中央アフリカ共和国は、その国難に世界の目を向けさせることに失敗しています。この1年間には、国の制度の崩壊、無法状態への転落の憂き目にあい、恐ろしい集団殺人が国中に恐怖を巻起こし、人々の集団避難が始まりました。人々は自分の政治的目的達成のための戦いで宗教を理由に掲げ、イスラム教徒とキリスト教徒とが永らく平和に共存してきた伝統が危機に瀕しています。

私は国際社会に対し、今すぐ人々の命を救い、警察組織を機能するよう再興し、人々がそれぞれ属していた場に帰還できるようにするための緊急軍事支援を訴えます。アフリカ連合とフランスとは部隊を展開しています。しかし、欧州連合[EU]による軍隊派遣計画は、未だに全く進んでいません。また、政治的処理、とりわけ和解を進めるためのもの、を開始することが同じくらい喫緊の課題です。これ以上に暴力が拡散すれば、戦火がさらに広範囲に広がる恐れがあります。

国がこれほど全面的に崩壊している時、解決は不可能な難題に見えるかも知れません。しかし、歴史はそうではないと証明しています。国際社会からの継続した支援に助けられ、シエラレオネも東ティモールも劇的な変化を遂げました。ルワンダは著しい発展を示していますし、他にも数々の国が筆舌に尽し難い暴力の嵐のあとに復興してきました。中央アフリカ共和国も同じ道を辿ることができるはずです。私は今まで通り同国政府を支持し、同国の人的資産、資源と伝統の力にふさわしい、安定と繁栄とを享受する国を築く道筋を描いていきます。

ルワンダでは、私は、集団虐殺追悼館を訪問し、犠牲者に弔意を捧げます。世界に試練を与えてきた他の悲劇、数十年前のアウシュビッツやカンボジアからもっと近年の他の悲劇の犠牲者まで、私が今まで弔問してきたのと同様です。国際社会は、残虐犯罪のことを気にかけると公言する一方で現実的にその予防に必要となる資源の提供や決意の発揮には尻込みする、ということは許されません。世界の首脳陣は、避けられることを避けるためにもっと行動し、私たちの目前で行われる残虐行為に対抗するべきです。世界の人々は、力なき人々、たとえばシリアや中央アフリカ共和国の民衆、の身になって想像してみて、全ての人々の人権と尊厳とが尊重される世界を築くために、今まで以上に自分にできることは何か、と自問するべきです。差迫った脅威に直面している人々に、あなた方は独りではないし見捨てられてもいないと、そして必要なライフラインを届けている最中ですと、示してみせましょう。


原文:
Title:“20 years after the genocide in Rwanda: Lessons learned and unlearned”
Author:BAN Ki-moon, UN Secretary-General
Date:Published on 05 Apr 2014
URI : http://reliefweb.int/report/rwanda/20-years-after-genocide-rwanda-lessons-learned-and-unlearned-op-ed-un-secretary

本速報は、TUPウェブサイト上の以下のURIに掲載されています。
http://www.tup-bulletin.org/?p=1611

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配信責任者:坂野正明

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2014年04月09日

[TUP速報973号] 情報公開という非暴力抵抗運動の系譜

[非公開設定を解くのを忘れていたのでしばらくこのあたりに置いておきます。nfsw19]

投稿日 2014年1月16日

<情報公開という非暴力抵抗>

権力の圧制に対する非暴力抵抗手段の中でも特にインパクトの大きい行動のひと つに、情報公開がある。ここ数年チェルシー(旧名ブラッドリー)・マニング、ウィキリークス、アノニマス、エドワード・スノウデンなどが巻き起こした情報公開への働きかけにより、情報抑圧と市民監視という米国内の反民主的な仕組みがいかに世界的な軍事独裁政権機構を支持してきたかが明らかになりつつある。しかし、このような情報公開という抵抗手段は決して新しいものではない。

43年前、ベトナム戦争に反対していた市民を監視していたFBIの活動を実証する ために、数人の一般市民がフィラデルフィア郊外のFBIのオフィスに忍び込み、エ ドガー・フーバーの秘密監視プログラムCOINTELPROの実態を暴露する書類を盗んで報道機関に送った。この文書には、おとりエージェントが市民運動へ入り込んで個人情報を集めたり、霍乱情報を流して市民グループを分裂させたり、扇動を行なって市民運動を暴力的な方向に導いたりする隠密作戦の内容が明らかにされていた。民主制の基盤を揺るがす市民へのスパイ活動を暴露するこの情報は大きな反響を呼び、自国市民の監視を禁止するFISA法(外国情報監視法)の立法に結びついた。さらに、ベトナム戦争に関する軍部の情報操作に対する市民の関心と反戦の世論を高めることになった。

2014年1月8日、43年間の沈黙を破り、この情報公開を行なった市民が名乗りをあげた。彼らの動機についてはエイミー・グッドマンが詳細なインタビュー (http://www.democracynow.org/2014/1/8/it_was_time_to_do_more )を行なっている。

市民による絶え間ない抵抗運動の系譜と動機を伝える文脈を提供したいと思い、 岩波書店月刊『世界』一月号掲載の拙稿「真実を知らしめることは犯罪ではない」をTUP速報としてお届けします。

前書き・執筆:宮前ゆかり/TUP


真実を知らしめることは犯罪ではない
<内部告発者を守る人々:ジャーナリストの義務と責任>


「……報道機関の仕事は、権力に対し真実を突きつけることです。
……内部告発者が現れたら、私たちは彼らのために戦わなければなりま
せん……内部告発者の口が封じられた場合には彼らの声となる必要があ
ります。内部告発者が追いつめられたときには彼らを守る盾となるべき
です。内部告発者が監禁された場合には彼らを解放しなければなりません。
真実を知らしめることは犯罪ではありません。これは我々のデータ、我々
の情報、我々の歴史です。それを自らの手にするために戦わなくてはな
りません。……」
――セーラ・ハリソン:ウィキリークス


<無数の人々の犠牲と献身>

ウィキリークスの法律部門リサーチャー、セーラ・ハリソン(32歳)は、
2013年6月23日以降、香港から南米へ向かうエドワード・スノウデン
(30歳)の安全を守るために逃避行に付き添ってきた。米国政府がスノウ
デンのパスポートを無効にしたためモスクワのシェレメチエヴォ空港で
1カ月以上足止めされていた間も、ロシアの弁護士や人権擁護グループ
の尽力を受け、エクアドル、ボリビア、スペイン、ドイツを含む世界
21カ国に対する亡命申請と交渉活動を行なった。スノウデンの一時亡命
ステータス実現を確認した後、11月6日、英国籍を持つハリソンは突然
ベルリンに現れた。内部告発者を守るジャーナリストの役割が危機に瀕
していることを訴え、自らもドイツへ亡命したことを明らかにした。

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2013年04月22日

[TUP速報967号] イラク――戦争が遺したがん・先天異常

2013-4-22 9:04:28

国際法違反の兵器の使用がイラクの
将来世代に害を及ぼし続ける

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米国によるイラク戦争・侵略から10年が経ち、ファッルージャをはじめイラク
の各地で、先天異常、がんなどの病気、流産・早産が異常に増えています。
イラクの実情を伝え続けてきた米国のジャーナリスト、ダール・ジャマイル
による衝撃的な報告です。イラクでの自衛隊の活動は2008年名古屋高裁の違
憲判決が確定しました。日本が憲法違反の自衛隊派遣を行ってこのような戦争
に関与した責任を検証しなければなりません。(翻訳:荒井雅子/TUP)
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イラク――戦争が遺したがん
ダール・ジャマイル


劣化ウラン弾をはじめとする軍事関連の汚染にさらされたことが、イラクの広
い範囲で先天性(出生)異常、がんなどの病気が急増している原因ではないか
と疑われている。

多くの一流医師・科学者が、劣化ウラン被曝は、イラクで以前には見られな
かった病気の最近の発生にも関連があると指摘する。たとえば、腎臓、肺、肝
臓の新しい病気や、免疫系全体の崩壊などだ。劣化ウラン被曝はまた、イラク
の多くの行政区域で報告されている、特に子どもの間での白血病、腎臓病、貧
血の症例の急増にも関連がある可能性がある。

また、ファッルージャなど特に米国の激しい軍事作戦が展開された地域では、
イラク女性の間で、流産や早産が激増している。

イラク政府の公式統計によると、1991年の(第一次)湾岸戦争勃発以前、イラ
クでのがんの罹病率は、10万人あたり40人だった。1995年には、10万人あたり
800人に増加しており、2005年には、10万人あたり少なくとも1600人に倍増し
ていた。現在の推計は、増加傾向が続いていることを示している。

こうした統計は衝撃的だが、症例についての適切な記録・研究・報告がないた
め、がんやその他の病気の実際の罹病率は、このような数字をはるかに上回っ
ている可能性が高い。

「がんの統計を得るのは難しいのです。イラクでは公的医療は50パーセントだ
けですから」と、イラク健康管理増進協会のサラーフ・ハッダード医師はアル
ジャジーラに語った。「イラクの医療の残りの半分は民間セクターが提供して
おり、民間セクターは統計の報告をきちんと行いません。ですから、イラクの
統計はすべて、2倍しなければなりません。公式の数字はどれも、本当の数字
の半分でしかない可能性が高いのです」


<有毒環境

ハッダード医師は、がん罹病率の上昇と、米軍がその地域でどれほど爆撃を
行ったかとの間には直接の相関があると考えている。

「同僚も私もみな、ファッルージャで先天性形成異常、不妊症、不育症が増加
していることに気づいています」と彼は言う。「ファッルージャでは、米軍の
爆撃と米軍が使用した武器によって毒物が持ち込まれたという問題があります。
その一つが劣化ウランです」

2004年、米軍は、ファッルージャの街に対して、大規模な軍事包囲を二度行い、
大量の劣化ウラン弾および白リン弾を使用した。

「米軍が私たちの環境に持ち込んだ放射線やその他有毒物質にさらされた、イ
ラクの子どもたちの将来が心配です」とハッダード医師は付け加えた。

しばしば引用される疫学調査に、「Cancer, Infant Mortality and Birth
Sex-Ratio in Fallujah, Iraq 2005-2009(仮邦題:ファッルージャにおけるがん、
乳幼児死亡率、出世時性比――イラク、2005‐2009年)」がある。これは、700
以上のファッルージャの世帯の一軒一軒について調査を行ったものだ。

研究チームは、異常に高い率のがんと先天異常についてファッルージャ住民に
面接調査を行った。

論文執筆者の一人で、化学者のクリス・バズビーによれば、ファッルージャで
の健康の危機は、「これまで調査した集団の中でもっとも高率の遺伝子損傷」
を示すものだと言う。

モズガン・サヴァビーアスファハニ博士は米ミシガン大学(アナーバー市)の
環境毒性学者だ。20編以上の査読論文を書いており、そのほとんどは、有毒物
質・戦争関連汚染物質による健康への影響を扱っている。現在は、イラクの各
都市での戦争による汚染と先天性異常の異常な増加を中心に研究している。

「爆撃を受けた住民は、爆撃の後、汚染された自宅跡とか、金属への暴露が継
続する建物とかにとどまることが多いのです」

「ファッルージャでの私たちの研究では、大多数の世帯が爆撃を受けた自宅に
戻ってそこに住むか、でなければ、自宅のあったところの汚染された瓦礫の上
に家を建て直していました。また使えるものがあれば、爆撃された場所から拾
い出した材料を建築に使っていました。こうしたやり方が広く行われたために、
地区への爆撃が終わった後もずっと、住民は有毒金属にさらされることになる
でしょう」

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2013年04月13日

[TUP速報966号] リバーベンドの日記 - イラク侵攻10年に刻んでおこう、何を学んだのか。

2013-4-13 5:25:06

バグダード陥落から10年。私たちの学んだこと。

2003年には、1年が自分に残された寿命のように思えた。愚か者は「なにもかもすぐによくなるさ」といった。楽観主義者は1、2年の猶予を占領者に与えようとしていた。現実主義者は「少なくとも5年は何事も改善しないだろう」といった。 悲観主義者は?悲観主義者は「10年はかかるだろう」といった。

この10年を振り返り、占領者たちと彼らの操り人形のイラク政府とが10年間私たちに何にをしてくれたのか、みてみよう。この10年で、彼らが何を成し遂げたのか?私たちは何を学んだのか?(本文より)

2007年10月、難民になってしまったという報告を最後に、途絶えていたリバーベンドが日記を再開しました。たぶんこれが最後だろうという言葉とともに。

戦渦のバグダードから、毎日の暮らしを営む人間としての声を届けていてくれたリバーベンドの「この10年で学んだこと」。彼女の声はますます強く深く確固たるものとして心に届きます。

(この記事はTUPとリバーベンドブログ翻訳チームの連携によるものです)

前文:金 克美(キム・クンミ)/TUP  翻訳:伊藤美好・金克美/リバーベンドブログ翻訳チーム


2013年4月9日火曜日
あれから10年・・・。


2013年4月9日で、バグダード陥落からちょうど10年になる。あの侵略から10年。数百万のイラク人の人生が永劫に変わった日から10年。とても信じられない。日々の営みを世界中と分かち合っていた頃が、ほんの昨日のことのように感じられる。今日は、再び、私の思いをこのブログに書き留めておかなければならないと思う。おそらく、これが最後になるだろう。

2003年、私たちは、自分たちに残された命の長さを、あと何日、あと何週間と数えていた。来月まで生き延びられるだろうか? この夏を越せるだろうか? 生き抜いた人もいたが、多くは逝ってしまった。

2003年には、1年が自分に残された寿命のように思えた。愚か者は「なにもかもすぐによくなるさ」といった。楽観主義者は1、2年の猶予を占領者に与えようとしていた。現実主義者は「少なくとも5年は何事も改善しないだろう」といった。悲観主義者は? 悲観主義者は「10年はかかるだろう」といった。

この10年を振り返り、占領者たちと彼らの操り人形のイラク政府とが10年間私たちに何にをしてくれたのか、みてみよう。この10年で、彼らが何を成し遂げたのか? 私たちは何を学んだのか?

私たちは多くを学んだ。

人生は不公平だが、それにもまして死は不公平だということを。― 死は善き人々を選んで連れ去る。死さえ、運・不運がある。運のいい人たちは「正常に」死ぬ・・・がんや、心臓発作や、脳卒中といったありふれた死に方で。不運な人たちは、ばらばらになった肉塊を拾い集められることになる。彼らの家族は、夥しい血に染まった地面から、どうにかかつての面影をかき集め、救い出し埋葬する。不思議なことに路上の血は赤くないのだ。

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ラベル:イラク戦争
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2013年02月15日

[TUP速報962号] 原子爆弾 -- オリバー・ストーン監督インタビュー

[非公開解除にあたり、しばらくここらへんに置いておきます。nfsw19]
[オリジナルの場所に戻しました。2014.04.10 nfsw19]


2013-2-15 12:28:08

◎グレッグ・ミッチェルによるオリバー・ストーン監督インタビュー
 TVシリーズ「原子爆弾」エピソード


志願してベトナムで陸軍に従軍し、帰還後1986年に「プラトーン」でアカデミー賞監督賞を受賞したオリバー・ストーン監督。以後、社会派監督として「7月4日に生まれて」、「JFK」、「ニクソン」等数々の問題作を発表した。その彼が手がけたテレビシリーズについて、ヒロシマに詳しいジャーナリスト、グレッグ・ミッチェルが、監督本人にインタビューした記事である。 「原爆は悲惨」だが「原爆が戦争を終結させた」という概念は戦後広くアメリカ社会に浸透してきた。この概念が「なぜ浸透したのか?」について、明かされない、あるいは表立っては語られてこなかった事実が多数存在することをインタビュー内でオリバーは示唆している。さらに、作成されたテレビシリーズが迫ろうとする戦争と原爆の真実、そしてそれらを巡るアメリカ文化についての自身の解釈を語っている。

訳者は広島出身在住であるが、被爆した側が正面からこの概念に反対することがはばかられる空気の存在を、もう随分と長く感じている。被爆した立場から訴えることで、どうしてもそぎ落とされてしまう、届かないメッセージが発生することを、かつてそれを訴えた歴史の中から身を以て学んできたからだろう。

一方、原爆投下したアメリカには、原爆について偏った理解が進んでも、不正確な認識を容認してきた文化がある。そんな中、インタビュアーのグレッグ・ミッチェル、そしてインタビューを受けたオリバー・ストーンの両者は丹念に史実を紐解きながら「原爆投下は誤りであった。」ということを訴え続けてきた。それが、オリバー・ストーン監督のテレビシリーズ作品の中で正面からとらえられていること、そしてインタビューで率直に語り合う二人の歴史観が広くインターネットに公開されている事実が示唆するのは、この二人やインタビュー内で名前の挙がった活動家、そしてそれを支持した人々の平和を願う強い意志ではないだろうか。

日本はアジアでの戦争の歴史においては加害者の顔を持つことに加えて戦後の日米関係の中で、原爆投下(加害)に対するに一般的なアメリカによる認識の誤りを「アメリカに届く形」で指摘することに失敗してきた。インタビュー中にもあるように、人間の本質として誤りを認めることは難しい。しかし、人間は過ちを起こすものだという前提から、加害者、被害者の立場を超えて「歴史の正しい認識」を最優先したうえで、国内外への発信をおこなうべきだということに、もっと多くの日本人が気付くべきであろう。

訳者はこの記事を翻訳するにあたり、TUPの活動をこれまで長年支えてきた仲間から多くのアドバイスをもらい、自身の認識のズレに気付かせてもらい、さらに勉強不足による知識のなさを痛感することになった。この場を借りて仲間に感謝の意を表したい。同時に、今後の活動を息長く続けることを目指し、その中で自分に何ができるかを真剣に問い続けたいと思う。

〔翻訳: 宮原 美佳子(前書とも)/TUP〕

凡例: (原注) [訳注]


オリバー・ストーン監督インタビュー
今夜放映のTVシリーズ「原子爆弾」エピソード
2012年11月26日 [ザ・ネイション]
グレッグ・ミッチェル


あの有名な監督(かつ歴史通でもある)オリバー・ストーンが手がける待望のTVシリーズ『Untold History of the United States[仮訳:語られざるアメリカの歴史]』が11月12日の「ショータイム」で放映されました。このTVシリーズは第二次世界大戦の直前直後にまずは焦点を絞り、次いでそれ以降のアメリカの戦争(冷戦も含め)やその他の問題に同じテーマで切り込んでいきます。

シリーズ第三話となる今夜放映のエピソードは(ほとんどのアメリカ人にとって、ということですが)日本へのアメリカの原子爆弾投下について新たな視点を提供しています。

本シリーズについては、ストーンと歴史家のピーター・クズニックが同タイトルの関連本を堂々の700ページ超のハードカバー本として上梓しています。そのストーリーはTVシリーズより少し前の第一次世界大戦からオバマの時代までをえがいており、とりわけミハイル・ゴルバチョフ、ダグラス・ブリンクリー[1]、そして「これでハワード・ジン[2]も鼻が高いだろう」と言ったダニエル・エルスバーグ[3]をはじめとした人々の推薦文で飾られています。

ヒロシマの章では、当時の原爆投下が誤りであったことを強調しています。ストーンとクズニックは、旧ソ連が原爆投下二日後に、アメリカが強く求めていた通りに対日参戦したことに焦点を当てました。原爆投下が無かったとしても、事態を一変させるこの衝撃的な旧ソ連参戦により、日本は速やかに降伏せざるをえない状況になっていたことでしょう。しかし実際には、二都市への原爆投下により20万人以上の命が犠牲になり、しかもその大多数が女性や子どもなどの一般市民だったのです。

アメリカン大学で教鞭をとるクズニックは、同大学の核研究所の所長も兼務しており、これまで広範にわたり原子爆弾について書き著わしてきました。さらに毎年、担当するクラスの一組を広島と長崎へ連れて行っています。思い起こせば私自身も1984年に1カ月にわたり広島と長崎とに滞在したものでした。(同じテーマの私の本の一つ[4]およびウェブ掲載記事[5]があります。二人の兵士が撮影した広島と長崎の歴史的映像と数十年にわたりその映像が封印されてきた様子を書いた作品です。)

ストーンとクズニックは、その本の48ページを割いたヒロシマの章のタイトルを『The Bomb: Tragedy of a Small Man[仮訳:原爆―あるちっぽけな男の悲劇]』としています。もちろん「ちっぽけな男」とはトルーマン大統領を指しています。仮に1944年の大統領選で進歩主義のヒーローだったヘンリー・ウォレスが俗物政治家のトルーマンに副大統領の指名を奪われていなければ、(原爆投下と冷戦に至った経緯について)歴史はもっと違っていただろうと、この本そしてTVシリーズでも主張しています。しかし、ストーンはどのようにしてトルーマンによる原爆投下の判断が誤りだとするに至ったのでしょうか? 数日前の彼へのインタビューは、この質問からスタートしました。

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2012年12月25日

[TUP速報959号]ジュリアン・アサンジの演説(1) 2012年9月国連総会宛て

ジュリアン・アサンジの演説 (I):2012年9月国連総会に宛てた人権に関する演説
2012-12-25 19:37:52

◎今や米国はウィキリークスと、
情報源とされる人々への迫害をやめ、
正義を行うべきときです

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ウィキリークスとその編集長ジュリアン・アサンジは、世界各国の権力構造の実態を暴く膨大な量の重要文書を公開してきた。米国大使館公電や、米軍の戦争犯罪の実態を暴き、米国の怒りをかったアサンジは、超法規的な処断による弾圧を受けてきた。身の危険に迫られたアサンジはエクアドルに亡命を希望し、現在ロンドンのエクアドル大使館で保護されている。すでに6カ月が経った。

去る9月26日、アサンジは国連総会に向けてエクアドル大使館から衛星回線経由でオバマ大統領に迫害を止めるように呼び掛ける演説を行った。

アサンジはその後12月20日にもうひとつの演説を行い、2013年には、さらに10万件にもおよぶ重大文書を公開すると発表した。両方とも素晴らしい演説だったのでTUP速報シリーズとしてお届けします。

今回分はこのyoutubeで見られます。
https://www.youtube.com/watch?v=IjPAmTn0WYA&feature=endscreen&NR=1

(なお、これまでのウィキリークスの活動やアサンジに対する弾圧の諸事情については過去のTUP速報をご覧ください)

速報946号 ジュリアン・アサンジ支援集会でのダニエル・マシューズのスピーチ
http://www.tup-bulletin.org/modules/contents/index.php?content_id=979

速報937号 "勇気は伝染する"―マニング、ウィキリークス、ウォール街占拠
http://www.tup-bulletin.org/modules/contents/index.php?content_id=970

[前書き:宮前ゆかり、 翻訳:川井孝子・寺尾光身・藤谷英男]



国連総会に宛てたジュリアン・アサンジの
人権に関する演説(2012年9月26日水曜日)


パティーニョ外務大臣閣下* 、各国代表の皆様、ご列席の皆様

[訳註: *エクアドルの外務・貿易・統合大臣]

今日私は一人の自由な人間として皆さんにお話しいたします。起訴されないまま659日勾留されてはいるものの、最も基本的で最も重要な意味で私は自由だからです。自分の考えを述べる自由があります。この自由があるのは、エクアドル国民が私の政治亡命を受け入れて下さり、他の国々の方々が結束してその決定を支持して下さったことによります。また、ウィキリークスが「あらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える」* ことができるのは、国際連合の世界人権宣言第19条によります。そしてまた私が他の人々とともに政治的迫害からの保護を受けることができるのは、「迫害を免れるため他国に避難する権利」を明記した世界人権宣言第14条1項や1951年の難民条約その他国際連合が定めた諸協定によるからです。

[訳註:* 世界人権宣言第19条邦文より引用]

国連のおかげで、私は自分の不可譲* の権利を行使することができ、私に対して、そして私の組織のスタッフや支持者たちに対し諸政府が行っている恣意的で過剰な行為から保護を求めることができます。国際慣習法と国連の拷問禁止条約に、拷問に対する絶対的禁止が明記されているからこそ、だれが犯人であるかに拘わらず、一組織として、私たちは揺るぎない立場に立って拷問と戦争犯罪を断罪するのです。

[訳註:* 何人も奪うことのできない、何人にも譲ることのできない(基本的人権)]

エクアドル政府のご厚情により今日再び国連で話す機会を提供されたことに感謝したいと思います。ジュネーブの普遍的定期審査*で証言したときとは状況はまったく異なっているのですが。

[訳註:*国連人権理事会が定期的に加盟国の人権状況を審査するための制度]

ほぼ2年前の今日、私はそこで10万人以上のイラク民間人に対する拷問と殺人を暴露した私たちの仕事について話しました。けれども今日はアメリカの話をしたいと思います。イラクに配備されていた 、ある若い米軍兵士のことを語りたいのです。

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2012年12月05日

[TUP速報956号]サブラ・シャティーラの大虐殺30周忌によせて

2012-12-5 14:05:17

大虐殺を目撃し、支援を訴え続けてきた
国際ボランティア医師の証言

――――――――――――――――――――――――――――――
今年2012年で、パレスチナ人が故郷を追われてから64年、そして追われた先のレバノンにあるサブラとシャティーラ難民キャンプで大虐殺が起こってからちょうど30年になります。

その大虐殺の30周忌に、大虐殺当時パレスチナ人支援のためにキャンプで活動していた外国人医療関係者たちが世界中からベイルートに集まりました。この記事の執筆者、シンガポール出身でイギリス在住のスウィー医師もその中の一人です。30年という年月が流れていますから当時の関係者たちもみんなだいぶ年を取っていましたが、とても小柄なスウィー医師は後ろから見たら子どもにしか見えませんでした。こんな小さな女性が本当に大虐殺現場や野戦病院で執刀していたのだろうかと目を疑いたくなるくらいでした。

スウィー医師自身、祖国であるシンガポールから追われて長年イギリスで亡命生活を強いられてきました。また、熱心なクリスチャンとしてイスラエルを支持して育ちました。その彼女が、30年前のイスラエルのレバノン侵攻とそれに続くサブラとシャティーラの大虐殺で、パレスチナ人と出会い、彼らを知り、一生の友達になりました。ともすると閉塞感が先行して希望を失いがちになってしまうパレスチナ問題ですが、彼女は大虐殺から30年経った今、パレスチナ人の中に何を見たのでしょうか。

(前書き:宮地葉月、翻訳:荒井雅子、解説・訳注:岡真理 / TUP
「サブラ・シャティーラ大虐殺」については、末尾の解説をご覧ください。)

希望について学んだこと
サブラ・シャティーラの大虐殺30周忌によせて

アン・スウィー・チャイ

今年、レバノンのパレスチナ難民が、サブラとシャティーラの大虐殺から30周忌を迎えようとしている中、レバノンはシリアから逃れてきた何千人もの難民を受け入れています。私たちは国際社会の断固とした姿勢の下、紛争が早く終わり、シリア難民が帰還できるよう祈っています。

64年前の1948年にも、レバノンは難民を受け入れました。パレスチナの街や村での大虐殺と破壊を逃れた75万人のパレスチナ人の一部でした。難民たちはテントに入れられ、帰還の権利を約束されました。しかしパレスチナの地のほとんどがイスラエルと名を変え、そのため難民とその子孫はレバノンに留まることになりました。国連の運営する12の公式難民キャンプに散り散りに住む彼らは、今日世界で400万人に上るパレスチナ人ディアスポラ[訳注1]の一部です。パレスチナ人にとっては、自分たちの土地を収奪された根本原因に取り組む熱意を欧米主要国からまったく感じられず、祖先伝来の故郷への帰還権への実質的支援もまったく得られません。

[訳注1]
国連に登録されている難民(登録難民=国連から支援を受けている人々)は、2012年1月段階で 470万人である。また、64年前に難民となったが、現在、国連の援助を必要とせず、たとえばクウェイトやアメリカのパスポートを所持し、国連に難民登録していない、いわゆるディアスポラのパレスチナ人も含めると、その数はそれをはるかに上回る。


毎年9月、何百人ものパレスチナ人、そして世界中から訪れる友人たちがシャティーラ・キャンプの殉難者広場に集まります。広場には、サブラ・シャティーラの大虐殺で殺された人たちのうち1000人が葬られています。私たちは無残に命を断ち切られた人たちを思い、悼むのです。彼らが忘れ去られてしまわないように。そして彼らの家族に弔意を捧げます。

30年前の1982年8月、若手ボランティア医師として[レバノンに]やって来た私は、ベイルート南部のサブラ・シャティーラパレスチナ難民キャンプにあったガザ病院で活動することになりました。ボーンアゲイン(再生)派原理主義クリスチャンとして私は、イスラエルを強く支持していました。その夏、イスラエルの爆撃機による容赦ないレバノン空爆をテレビで見ていました。数え切れない人びとが殺され、その中には多くの子どももいました。病院、工場、学校、家々が瓦礫の山と化しました。レバノンの人間はテロリスト集団であるPLO(パレスチナ解放機構)をかくまっているのだから苦しんで死ぬのは当然だとイスラエル寄りのクリスチャンの友人たちは言いましたが、私は納得できませんでした。レバノンの人びとの役に立ちたいと考え、それで、「クリスチャン・エイド」が負傷者の手当てを手伝う外科医を求める要請に応えて、イギリスの勤務先の病院を辞め、ベイルートに向かったのです。

中東に来るのは初めてでした。それまでパレスチナ人の存在をまったく知りませんでした。欧米の一般メディアは、テロリストPLOのことしか報じません。PLOはユダヤ人を憎み、爆弾を仕掛け、飛行機を乗っ取る。PLOはレバノンに拠点を築いており、イスラエルはレバノンがPLOを追い払うのを支援しているのだから、そのためにたとえレバノン中が瓦礫と化してもいいと言うのです。イスラエルのある政治家はこう宣言しました。「オムレツを作るにはまず卵を割らねばならない」と。

私が着いたのは、10週間にわたる激しい爆撃で破壊されたベイルートでした。攻囲のために食糧、水、医薬品が不足していました。家を失った人々が荒れ果てた駐車場や学校にあふれ、道端で眠る人さえいました。通りかかって案内されたアッカ病院は、5階建ての建物が瓦礫ともつれた鉄筋と化していました。アッカ病院は、シャティーラ・キャンプで一番の大通り、サブラ通りの端にあります。サブラ通りのもう一方の端にあるのがガザ病院で、こちらは10階と11階が砲撃で崩れていましたがまだ建っていました。どちらもパレスチナ赤新月社の最新鋭の病院で、国際赤十字社の旗が翻っていたにもかかわらず、どちらも標的とされたのです。私は整形外科の責任者として再開の支援をするため、ガザ病院に配属されました。

私の到着後まもなく、PLOがベイルートを撤退しました。イスラエルがさらなる空爆を中止し、攻囲を解くための条件として求めたのです。残していく家族の安全が守られるという保証を欧米主要国から受け、1万4000人に上るPLOの壮健な男女がベイルートを去りました。去っていた中には戦士もいましたが、医師、講師、労働組合活動家、広報担当者、技術者、技師といったPLOの文官もいました。PLOはパレスチナ人の亡命政府でした。こうして、レバノンでは、爆撃で殺された人びとに加えて、1万4000の家族が稼ぎ手――多くの場合、父親や長男――を失いました。

停戦は3週間しか続きませんでした。停戦協定によってベイルートの民間人の保護を任された多国籍平和維持軍が突然撤退しました。9月15日、イスラエルの戦車数百台がベイルート南部と西部に侵攻しました。その一部がシャティーラ・キャンプを取り囲み、封鎖して、住民が逃げ出せないようにしました。イスラエル軍は、同盟者であるキリスト教徒民兵の一団をキャンプに送り込みました。9月18日イスラエル軍戦車がキャンプ周辺から撤退したとき、3000人の民間人死者が残されていたのです。

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2012年09月30日

[TUP速報952号] 第三次ナイ・アーミテージレポートの中身

2012-9-30 18:41:49

◎日本に原子力推進を促す米シンクタンクの重要文書
───────────────────────────────
第三次ナイ・アーミテージレポートの危険な原子力政策への提言
米国の「国家安全保障」のために日本に原発推進を求める


 「ナイとアーミテージ」とは、ジョセフ・ナイ元国防次官補とリチャード・アーミテージ元国防副長官です。ジャパン・ハンドラーなどと呼ばれる人物で、日本に対して繰り返し「集団的自衛権の行使」「改憲」(もちろん9条改憲)を迫っています。日本の歴代内閣と官僚は、彼らの提言をまるで「神託」のごとくに重用してきた経過があります。

 「原子力政策の憲法」などと称されることもある「原子力基本法」。この法律がある時突然書き換えられていたら・・・それは、まるで悪夢のような出来事です。

 なぜならば、原子力基本法には「自主・民主・公開」の原則が謳われ、さらに「原子力は平和利用に限る」という平和利用条項を有しており、核兵器開発を防ぐための規定だからです。日本が原子力開発に踏み出した1960年代に、多くの科学者が核武装を懸念し、その道を少しでも絶っておこうとして作った法律です。なお、「非核三原則」は法律ではありません。「国是」とされているとはいえ放棄することに法的制約はありません。だからこそ歴代自民党内閣は法制化を断固拒否してきたのです。しかし原子力基本法は違います。

 なお、原子力基本法は原子力推進法でもあるので、その点においては重大な問題があり、原発からの撤退を求める立場からは、修正が必要であることは確かです。

 日本が世界最大級の核燃料サイクル施設を有し、容易に核兵器開発に転用できる「ウラン濃縮工場」「高速増殖炉」「再処理工場」などの「機微技術」を大量に保有・開発し続けられたのは、米国の支援はもちろんですが、国際的には核拡散防止条約(NPT)とIAEA保障措置条約を遵守することを約束し、国内法においては原子力基本法を始めとした法令を整備してきたからです。そうでなかったらとっくにどこかの国に爆撃されていたかも知れません。

 その「憲法」法案が、誰の目にも触れないままに、こっそりと「書き換えられていた」のです。

 6月20日に成立した「原子力規制委員会設置法」の付則(法令の実施時期などの付随的事項を定めた規定)の中に「原子力基本法」の第二条「目的」を書き換える規定が忍び込ませてあるのです。

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