*オリジナルの日付に戻しました。(2014.06.15 nfsw19)
英国在住の友人、神宮ぴーまんさん(仮名、当然ですね)が、2011年3月27日付けテレグラフ紙日曜版に掲載された「フクシマ・フィフティ(福島の50人)」のインタビュー記事を全訳して自身のブログ「エゲレスよろずNews@UK」にアップしてくださったので、本人の許可を得て転載する。当該記事を読む前に、まず日本ではかれらのことがどのように報じられていたかを記録として残しておく。
外国の記者に話すときと、日本の記者やテレビカメラの前で話すときは、当然のことながら使う言葉も話す内容も変わってくるだろう。しかし、それは聞く側の態度にも大きく影響されるのではないかと両者を読み比べて思った。
*
2011年4月8日、新聞記事2本とネットメディア記事1本を追加。
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見えない「敵」、暗闇、怒声…
ハイパーレスキュー隊員が見た放水の現場
2011.3.22 20:34 MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110322/dst11032220410050-n1.htm
歴戦の“勇士”たちは冷静に、前向きに「災害」へ立ち向かった。福島第1原発事故で、放射能漏れを起こす3号機への放水活動に従事した東京消防庁ハイパーレスキュー隊の福留一彦消防司令補(44)と國澤健一消防司令補(41)が22日、産経新聞の単独取材に応じた。「再び指令が下れば迷わず飛び込む」。2人は険しい表情で現場の惨状を振り返りながらも、そう力を込めた。(中村昌史)
18日午後11時ごろ。原発に到着した2人が目の当たりにしたのは、無残に破壊され尽くした施設の不気味な姿だった。津波や爆発などで散乱したがれき。建屋が吹き飛んだ1号機と3号機は、鉄骨の骨組みがむき出しになっていた。
「文字通りの真っ暗闇。静寂の中で、隊員の怒声だけが響いていた」
放射能という見えない敵への恐怖心に加え、がれきの山が隊員の行く手を阻んだ。
本来は車両で引き延ばすはずだったホース。爆発で散乱したがれきで車が通れず、隊員が4人1組で約100キロのホースを担ぎ、暗闇の中を駆け抜けた。福留消防司令補が目をこらすと、通り道のマンホールのふたが吹き飛び、口を開けていた。海水をくみ上げるポンプを設置した國澤消防司令補。海に面した岸壁はボロボロで、今にも崩れ落ちそうになっていた。
「一瞬の判断ミスが命取りになる」。シミュレーションを繰り返して乗り込んだはずの現場は“想定外”の連続だったが、隊員同士の励ましが心を支えた。
放射線量を測定し、隊員に被曝(ひばく)の状況を逐一伝えた隊員。原発建屋の数メートルまで接近して、放水塔を準備した隊員。防護服やマスクで声はまともに届かないが、「まだ大丈夫。がんばれ」と互いに声をからした。
被曝の恐れから時計を外して作業にあたったため、時間の感覚は吹き飛んだ。「物すごい早さで時が進んだ。すべてがあっという間の出来事だった」(福留消防司令補)という。
そして、恐怖と苦難が吹き飛ぶ瞬間が訪れる。「いい水が出てるぞ」。19日未明、放水塔から放たれた水が白煙を上げる3号機にかかった瞬間、現場には隊員の大歓声が響き渡った。
無事に帰還した2人だが、家族には多くを語らなかった。
「カミさんも『お疲れさまでした』とだけ声をかけてくれた。消防官の妻は、みんなそんなものです」。國澤消防司令補は、静かにほほえんだ。
「支えてくれた仲間や上司、家族に感謝します。そして、現場で今も奮闘している自衛官、警察官、東京電力のみなさまのことを忘れないでほしい」。2人は声を合わせるように語った。
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2011年3月27日付けテレグラフ紙に掲載された「フクシマ・フィフティ」のインタビュー記事を神宮ぴーまんさんのブログから許可を得て転載します。行替えと句読点と訳の一部を許可を得て変更しました。
日本の津波:フクシマ・フィフティ初インタビュー
Japan tsunami: Fukushima Fifty, the first interview
独占:フクシマ・フィフティが語った
日本の核危機に取り組む緊急チーム「フクシマ・フィフティ」の
メンバーが語る危険と恐怖
Exclusive: in their own words, members of the Fukushima Fifty - the emergency crew tackling Japan’s nuclear crisis - tell of the dangers and fears they face
2011年3月27日 サンデイ・テレグラフ [*編註1]
アンドリュー・ギリガン、ロバート・メンディック [*編註2}
By Andrew Gilligan and Robert Mendick 7:00AM BST 27 Mar 2011
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/japan/8408863/Japan-tsunami-Fukushima-Fifty-the-first-interview.html

(写真キャプション)
Akira Tamura (たむらあきら氏)
予想と異なり順調に進行しておらず,それが懸念となっています。
Nobuhide Suzuki (すずきのぶひで氏)
隊員達は不安になり,現場は,かなり緊迫しています。重責が肩にのしかかっていると感じています。
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同じような形の灰色のフード付きジャージの上着と茶色の運動ズボンを着用し、放射線で汚染された私服を透明なビニール袋に入れて持ちながら、彼らは放射線値測定検査のために並んでいる。無精髭がはえ、目の下に黒いくまを作り、どっと疲れた表情で疲労困憊した様子の人も何人かいる。彼らがどこから来て、ほんの数時間後には、またその場所に戻らなければならないと考えれば無理もないことだ。
国家を核危機から救うために自らの命をなげうった必要最小限に絞られたチーム、「福島の50人(フクシマ・フィフティ Fukushima 50)」の驚異的な勇気は世界中をくぎ付けにした。フクシマ・フィフティは実際には数百人いて、シフトとローテーションで勤務しているのだが、彼らはスポットライトの真ん中にいながら、影の英雄として暗闇の中にいた。今までは……。
放射線もれを続ける原子力発電所のそばの廃港に、また、東京郊外の消防署に、サンデイ・テレグラフ紙(The Sunday Telegraph)は彼らを追跡取材した初の新聞となった。彼らは、顔の無い無名のスーパーマン達から、名前も家族もある現実の懼れる人々に変わった。狭く暗い場所でのぞっとするような仕事についての懸念、愛する人々の心配、そして決してあきらめないという決心について語ってくれた。
「そこは真っ暗でした」。東京消防庁ハイパーレスキュー隊から隊員を率い、溶融をはじめた第三号機に赴いたカズヒコ・フクドメ(Kazuhiko Fukudome 福留一彦消防司令補)隊長は語った。「真夜中で、たよれるのは自分達のヘルメットの灯りだけ。原子炉から煙や蒸気が立ち上げっているのが見えました。全ての策が失敗したために、海水をくみあげて冷却するようにと私達が呼び出されたのです。私は東京都に勤めるもので国家公務員でさえありません。政府は切羽詰まっていた。最後の手段だったんでしょう」
ハイパーレスキュー隊の最も危険な任務は夜11時の電話で始まった。「家にいました」。福留氏は語る。「非常に手短な電話でした。隊員を募って福島に行ってくれとだけ言うと電話は切れました。妻を振り返り、『福島に行くことになった』というと、妻はショックを受けた表情をしましたが、すぐに落ち着いた顔をとりもどし、『気をつけてね』と言いました。気丈な様子を示すことが私のためになるとわかっていたからです」
福留氏の頭には「行かない」という考えは全く浮かばなかった。しかし、様々な懸念はあった。「発電所までの道のりは、みな静かでした。みな心配していたのです。私達の任務のほとんどは普段から訓練しているものですが、これは目に見えない敵であり、非常に懸念されたのです」
危惧は現実となった。
午前2時に発電所に到着すると隊員は3組に分かれた。はしご消防車の1台が海岸ぎりぎりまで近づいて必要な水をくみ上げ、もう1台が原子炉建物の2m以内にまで近づいて実際に水をまき、3台目が、その間で1キロ近くに及ぶ黄色いホースをつなぐ役目をはたすことになっていた。
「予想より遥かに悪い事態でした。あたりは瓦礫の山でした」。福留氏は語る。「壊れたコンクリートの塊が散乱し、マンホールの蓋は、何故か全て吹き飛んで口を開けており、道は通れない状況になっていました。海まで運転していってホースを海から出すことは不可能だったので、完全な暗闇の中、ホースを抱えて、1キロ近くの距離を走らなければいけませんでした」
「お互いに『もうちょっとだぞ。続けろ。ホースをもうちょっと遠くまで引っ張れ』等と呼びかけ合いました」。福留氏は言う。「防毒マスクをかぶっていたので、本当に大声を出さなければなりませんでした。お互いに怒鳴り合っていたのです。ホースから水が出て原子炉にかかった時、みな、やった!と叫びながら、こぶしを天に突き上げました。そしてホースが自動的に作動するようになったので、みな少し下がることができました」
防毒マスクは別として、隊員達はバーナード犬のイラストの腕章がついたオレンジ色のユニフォームしか着ていなかった。「放射線が、どれだけのレベルかわかっていなかったのです。みな、今の私と同じ格好をしていました」。「オーバーオールの上に薄手の白い上下、さらにその上にユニフォームのコート、その白い服の他には何も着ていなかったのです」
放射線汚染されたかという質問に「ええ」と答えたが、特に心配しているようには見えなかった。「私達は26時間現場にいましたが、休憩所に戻ると検査を受けました。私の服にも靴下にも放射線汚染が見られ、没収されました。徹底的に洗って、また計測すると完全にクリアにはなっていませんでしたが、最低値は満たしていましたので、もう行ってもよいといわれました」。大丈夫でしょうか、との質問に、氏は笑いながら「はい」と答えた。「いや、これはちょっとおかしく聞こえるかもしれませんが、大丈夫だろうと思ってますよ。着ていた服は影響を受けているでしょうが、体は大丈夫だと思います」
多くのフクシマ・フィフティ隊員達の休憩所となったのは、奇妙な事に、ホノルルでの練習生訓練から、別の意味での「熱い」任地に送られた美しい大型帆船、海王丸だった。原発より数マイル [訳註:1マイルは約1.6キロ] 下がった沿岸にある津波の襲撃を受けた小名浜港では、船が波止場に打ち上げられ,クレーンは20度の角度で曲げられ、電気も水洗設備も止まっていた。しかし、海王丸は比較的被害の少ない桟橋に止められ、自家発電機、水、そして、元々ハワイでの訓練の練習生達のための必需品が積まれていた。
雑然とした中、ビニールで覆われたテーブルに押し寄せ合って座りながら、フクシマ・フィフティチームの数人はカレーを食べていた。数日ぶりの温かい食事だ。デッキの横には、温かいシャワーも本物のシーツをかけた二段ベッドもあった。日本では大人の読み物である漫画や、新聞を置いたリラックス用の部屋もあった。
しかし、誰もリラックスなどしていない。疲労と懸念で押しつぶされそうになった作業員は沈黙したまま座っている。「みなさん,静かです」。海王丸のトヤ・ススム(Susumu Toya 外谷進一等航海士)船長は言う。「食事中はどなたも喋りません」。ビールを勧めてもみな断る。話を聞くと、暗闇、そして恐怖が、何度も何度も出てくるのであった。
***
「火曜日に発電所の電力が回復したのは嬉しかった。真っ暗な状況で作業を進めるのは大変で、不安感が非常に強かった」と、白いコンバースのスニーカーを履いた岩手県のタムラ・アキラ(Akira Tamura 田村)氏は言う。「修理をするケーブルの一部は非常に高いところにあり、任務の遂行は想像していたほどスムーズには行かず、それがまた不安要因になった」。田村氏は大げさな表現は避け、そう言うに止めた。
消防士達と同じく、電気技術者は最低限の防備服しか着ていなかった。ガスマスクはつけていたが、全身を覆う裏地に鉛を用いた「(英国で)ノディ・スーツ」と呼ばれる防備服を着ていたのはほんの数人の、現場にほとんど居つめなくてはならなかい上司達だけ。全員の分がなかったからだ。
大多数が着ていたのは、タイベックという不織布でできた使い捨ての白いオーバーオールだけ。英国で、スプレー塗装や、工場などの専門的清掃をする作業員などが着るタイプの服である。この作業服は放射線で汚染された物質が直接体に付くのは防げるが、被曝自体は防げない。どの服も、付いた放射線汚染物質の蓄積を防ぐため、一度着たら廃棄される。発電所には、何百もの廃棄された白い作業服が積み重なっていると作業員は言う。
彼らを守っているのは二つのバッジである。被曝値をチェックし、危険なレベルに達すると警報を発するようになっている。「最も問題な(被曝量の多い)現場にとどまる時間が、それほどは長くないのが救いですが……」。匿名を希望する男性が言った。「問題の現場にずっとい続けるわけでなければ、放射線汚染物質の蓄積は問題ないと聞いています」
作業員達は真実だと言われたことを信じるしかない。しかし、それが真実か否かへの疑惑が日々深まっている。
記者が取材をした日、作業員のうち二人が、第三原子炉の冷却プール付近を歩いている時に放射線で汚染された水が長靴の上から入り込み、被曝による足の熱傷で病院に運ばれた。一緒にいたもうひとりの作業員は長靴が二人よりも長かったので助かった。
その放射線で汚染された水の放射能レベルは驚異的に高く、2〜6シーベルト、正常値の1万倍。つまり、最高値の場合、作業員に許されている一年間の被曝量の24倍にもなる。もし、その汚染水が、どんな方法であれ、体内に吸収されていたら、二人の作業員は確実に死亡していたであろう。
しかし、これは、現場にとって非常に深刻な発見である。それは第三原子炉の中心部から汚染水が漏れている事を示すだからだ。日本の菅直人首相は、昨日(3月26日)、原発の状況はいまだ「不安定」だと認め、原発近辺20〜30km域からの「自主的避難」を促した。海王丸が停泊している波止場もその域内にある。
原子炉を冷却する戦いの後には、原発の機能をコントロールするために、一秒でも早く電力を回復する任務が中心となる。その戦いの中心に携わっている田村氏は、作業員全員が原発内の地べたに寝ている、と語り始めた。「シフトのようなものはありません。24時間待機し、作業しています」。「今は(この休憩所に)シャワーを浴びるためだけに来ましたが、明日はまた戻ります。被曝値を最小限にとどめるために、1時間現場で働いたら2時間現場を離れるようにしています。この仕事に携わる作業員は当初10人だけでしたが、今は30人に増えたので、(休憩所に来て)食事をする時間ができました。
作業員達は、吹き上げる熱気と放射線を含む蒸気とも戦っている。現場には現在数百人の作業員がいるが、この任務に必要な専門的な配電技術を持っているのは、ごく少数である。そして、原発の外にいる一般市民たちは、現場の状況が改善されているとの印象を抱いているようだが、作業員達自身は(この戦いに)打ち勝ったという自信を持っているようには見えない。
配電作業員隊のリーダー、スズキ・ノブヒデ(Nobuhide Suzuki 鈴木)氏)は語る。「隊員達は非常に不安になっている。現場はかなり緊迫しているが、任務を続けるしかない。みな,世界中が注目している事を知っており、任務遂行への重責が肩にのしかかっていると感じている。また、人々の支援から大きな力をいただいている。応援によって、私達は孤立していないと感じている」
作業員達の話を聞いた人々からのメッセージは届いているかと聞くと、「今、頭の中にあるのは、とにかく続けていけるようにということだけだ」と鈴木氏は答えた。「私達は毎日、戦っています。どうか私達を応援してください」
福島原発の大部分はいまだに放射線汚染がひどく、作業員が一定以上の時間、とどまる事はできない状況にある。現場から離れる2時間と、放射線レベルが急上昇した緊急時、作業員は原発コンビナートの中心にある「避難所」ーー昨年7月に建てられた2階建て耐震設計のビルに退陣する。ここで、作業員達はガスマスクをとり、最小限の食事ーーカップヌードルとボトル飲料水を、地べたに座り、コンクリートの壁によりかかりながら食べる。最も責任の重い役職、原発運営者や所長など重役達を含む50名が、ほぼずっと原発建屋内に寝泊まりしている。再建任務運営本部は未だ汚染の重篤なコントロール室ではなく「緊急業務室」に設けられている。
田村氏達は、原発内の緊張の日々を生々しく語ってくれた。「怖いです。常に恐怖感があります」。32歳の作業員が匿名で語った。「でも、重要な、遂行しなくてはならない任務という意識に駆り立てられて働いています」
作業員達は、地震が原発を切り裂いた直後、主要電力を破壊した時の様子を語ってくれた。ドーンと、ぞっとする爆発音が、当時いた第4原子炉のサプレッション(圧力抑制)室まで届き、アスファルトと建物の横にひびが入り始めた。みな、津波が来て大惨事を引き起こす前に脱出した。状況が悪化する中、3月14日の最初の爆発は、陸上自衛隊中央特殊武器防護隊が2台に分かれて到着した瞬間に起こった。6名の隊員が飛び散るコンクリートの下敷きになり命を落とした。
海王丸の隊員達は、この救助活動任務に就いて以降、誰も家族と面会していない。「一つだけ望みが叶えられるのなら家内と両親に会いたい」と、田村氏は語る。「eメールを送ることができたが、本当に心配していると返信があった」。「家族とコンタクトが取れたのは一度だけ、電話で話しました。子ども達は応援していると言ってくれましたが、家内は傷心のあまり、ほとんど言葉になりませんでした」
田村一家、鈴木一家を始めとする海王丸のチームのほとんどの家庭は、一時的に夫がいないだけではなく、住む家も失ってしまった。家族達は現在、避難所にいる。もし津波で家がさらわれたのでなければ、原発避難地域に家があったためだ。そして、しばらくは、この避難所生活が続くのである。
勇気とは恐れを感じないことではない[*編註3] 。たとえ恐怖を抱いたとしても前進すること。その観点からみて、この男たちは間違いなくたいへん勇敢だ。しかし、自尊心と仕事への責務とを除けば、彼らがその持ち場にとどまる理由はもしかすると他にもあるかもしれない。かれらには他に行くところがないのだ。(了)
[*編註1] サンデイ・テレグラフ
テレグラフ紙はイギリスの高級紙の中では最も発行部数の多い、どちらかと言えば右派に属する硬派の新聞だ(日曜紙だけだとサンデイタイムス紙のほうが少し多い)。読者の年齢層が高く、保守的。イギリスの高級紙は過去数年のあいだにみな衣替えし、いまではみなコンパクトなサイズになっているのにテレグラフだけは昔ながらのブロードシート版(日本の高級紙のサイズ)で発行しており、レイアウトもまったく垢抜けない。
テレグラフの特徴は軍関係に読者が多いこと。そのため、高級紙だが必ずしもターゲットがミドルクラス以上ということもなく、様々な階層の人が読んでいる。軍事情報についてはもっとも信頼できると言われている。公務に就く人間の「無私の行い」への評価が高いのは、軍人が読者であるという点も関係しているかもしれない。
[*編註2} アンドリュー・ギリガン
取材した2人の記者のうちのひとり、アンドリュー・ギリガンは元BBCの記者。イギリスのイラク戦争参戦への決定要因のひとつとなったと言われる「フセインは45分間でイギリスに向けて最終兵器を積んだミサイルを発射できる」という情報が、事実に「色をつけた」不正確な情報だったとBBCラジオで暴露し、ブレア政府(のスピンドクターのアレステア・キャンベル)とBBCのあいだに真偽争いのもとを作った。ここから派生した問題により、ギリガン記者とかれを擁護したグレッグ・ダイクBBC事務総長が責任を取らされて辞任した。
この件に興味のあるかたは以下の論考を読まれると理解が深まると思います。
森田浩之のロンドン通信 2003.8.14「ブレア政権vsBBC」
検索で偶然見つけましたがたいへん興味深い記事です。特に最後の節(BBCの今後)の中の最後の2行。「BBCが政府と対立するような問題を起こしても信用失墜しない理由」として、筆者は以下の2点をあげています。
(1) メディア内にも競争が必要。
(2) 生え抜きだけを大切にする限り、ジャーナリストの独立心は育たない。
ちょうどいまのいま、東電擁護の横並びから脱却のきざしが見え始めた日本のマスメディアに最も欠けているものかも。
それにしても、この論考に登場するジャーナリストたち(ギリガン、ダイク、キャンベル)がいまだ第一線でばりばり活躍していることと、当時ダメダメと言われていた保守党党首IDS(イアン・ダンカン・スミス)がいまでは内閣の一員であることなど、なんとなしに感慨深いです。
[*編註3] 勇気とは恐れを感じないことではない。
ビートニクのアメリカ作家、アンブローズ・レッドムーン(Ambrose Redmoon)の文章のなかで最もよく引用される一説。全文は「Courage is not the absence of fear, but rather the judgement that something else is more important than fear.(勇気とは怖れを感じないことではなく、怖れることより重要な何かがあるという判断だ)」
Japan tsunami: Fukushima Fifty, the first interview
Exclusive: in their own words, members of the Fukushima Fifty - the emergency crew tackling Japan’s nuclear crisis - tell of the dangers and fears they face
By Andrew Gilligan and Robert Mendick 7:00AM BST 27 Mar 2011
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/japan/8408863/Japan-tsunami-Fukushima-Fifty-the-first-interview.html
翻訳原稿は神宮ぴーまんさんのブログ「エゲレスよろずNews@UK」よりお借りしました。他の写真は下記のページでご覧下さい。
http://ameblo.jp/xinwen/entry-10842926493.html
http://ameblo.jp/xinwen/entry-10843484183.html
http://ameblo.jp/xinwen/entry-10843496049.html
マルチリンガル(英独中日)のぴーまんさんのブログには興味深い翻訳記事がいろいろあります。ご訪問ください。
http://ameblo.jp/xinwen/
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記録として映像も取り込んでおきます。
福島第一原発 東京消防庁記者会20日 精鋭部隊139人3隊
http://www.youtube.com/watch?v=AliSwOvAwAs&feature
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マスメディア外のジャーナリストの代表として森住さんの記事も取り込んでおきます。
「森住卓のフォトブログ」
http://mphoto.sblo.jp/
東電作業員へのインタビュー
http://mphoto.sblo.jp/article/43881965.html
2011年03月17日 福島第一原発作業員へのインタビュー
3月16日
福島第一原発のある大熊町の人々は現在いくつかの避難所に避難している。その中の一つで、大熊町在住で福島第一原発のメンテナンスをしている人にインタビューを行った。(匿名で後姿だけ撮影、音声を変えることを条件にインタビューに応じて下さった。)
「地震発生時には施設内にいましたが、発生後すぐに屋外に出ました。その後、施設内の事務所に全員集まり、私は自宅待機を言い渡されました。避難指示後、家族とここに避難してきました。
もし招集がかかれば私も当然行きます。それが私の仕事ですから。その時は最悪の事態も覚悟しています。現在、施設内では千人から数百人が決死の覚悟で作業をしています。今後、この原発事故をどう収拾させることができるかは誰にもわかりません。最悪の事態も考えられます。炉心溶融も考えに入れておかなければならないと思います。」
現在は地元出身者以外で作業をしているとのこと。彼らの決死の作業に数百万の命がかかっている。彼らは、これまで安全だと言い続けてきた政府や電力会社の尻拭いをさせられている。
*
[参考] 翻訳記事:
福島原発:
被ばく量の限界で作業員交代−東電は人員増強を急ぐ
更新日時: 2011/03/18 08:17 JST ブルームバーグ
3月18日(ブルームバーグ):東日本大震災で被災した福島第一原子力発電所で危機的状況が続く中、東京電力は核燃料が溶け出す事態を回避するため前線に送る作業員を増やしている。ただ、当初派遣された作業員は、放射線被ばく量の限界から交代を余儀なくされている。
東電は核燃料が融解したり放射性物質が漏れ出したりしないよう、露出した核燃料棒に向けて放水作業を進める中、福島第一原発での作業員数を16日の180人から17日には322人に増員した。元米原子力規制委員会(NRC)の安全性指導員で米科学者団体「憂慮する科学者同盟」の物理学者、デービッド・ロックボーム氏によれば、露出した燃料棒のそばでは放射線量が16秒で致死量に達するという。
11日の巨大地震発生以降、同原発施設の放射線量は上昇しているが、作業員が施設内にとどまれる時間を延ばすため、許容される累積放射線被ばく量は2日前に2倍強に引き上げられた。英ナショナル・ニュークリア・コープの元安全政策職員で現在はメルボルンを拠点にする産業事故関連コンサルタントのジョン・プライス氏は、一部の場所では1時間の被ばく量が年間上限の半分に相当すると指摘。同氏は電話インタビューで「この状態では、作業員を急速に使い果たすことになるだろう」と述べた。
東電の広報担当者は、放射線量が最大許容量に達する前に作業員には施設からの退避を命じていると説明している。世界原子力協会によると、年間被ばく総量が100ミリシーベルト以上となれば、がんの増加が明らかだという。日本の衛生当局は15日、原子力作業員の累積被ばく量上限を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに引き上げた。日本の原子力安全・保安院は17日にウェブサイトで、作業員1人が106.3ミリシーベルトの放射線に被ばくしたことを明らかにした。
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追加記事ー2011年4月8日
東電の安全管理に疑問投げかけ 孫請け作業員が証言
2011/03/30 13:39 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011033001000035.html
建屋の地下にたまった水で作業員3人が大量被ばくした東京電力福島第1原発で、実際に復旧作業にあたった孫請け会社の男性社員が30日までに共同通信の取材に応じ、被ばく事故現場に放射線量を管理する責任者がいなかったことを問題点として指摘した。
男性はさらに、汚染された水に足が漬かった状態で3人が作業していたことについても「普通は水の中に入って作業なんかしない」と述べ、東電の安全管理の在り方に疑問を投げかけた。
3号機タービン建屋地下で24日に被ばくしたのはケーブル敷設作業をしていた下請け、孫請けの3人。そのうち、作業をしていたのは孫請けの作業員1人で、下請けの2人は現場監督だった。孫請けの作業員ほど、危険が高い難作業を任される構図になっていた可能性もある。男性は3人が被ばくした事故の問題点として、近くに線量管理の責任者がいなかったことを挙げた。
現在、放射線量の低い場所の作業は一日8時間に及ぶこともある。作業員は全員、敷地内の免震重要棟で寝泊まりし、乾燥米や缶詰など1日2食、1・5リットルのペットボトルに入ったミネラルウオーター1本という過酷な条件下にいる。
男性は、東電が作業員を集めるために日当として1人数十万円を払うという新聞記事を読んだ。「そんなことはない。作業は何年もかかるし、多くの人員が必要だ。誰がそんな金を出すのか」とあきれる。
深刻な状態が続く1〜4号機は廃炉になる可能性が高い。男性はずっと第1原発に携わってきた。「廃炉作業が終わるまでには50年くらいかかるのではないか。できれば最後まで作業を続けたい」と心情を吐露。近く、第1原発に戻るという。
***
追加記事ー2011年4月8日
コラムニュースマガジンT24
[編註:3月13日14日ごろに取材した証言のようです。無断転載ご容赦]
福島原発危機
現場ジャーナリストが伝える「生々しい証言」
ヨーコ 2011年3月31日 11:33 コラムニュースマガジンT24」
http://t24.in/2011/03/post-410.html
冷却しなければならないのに放射能に汚染された水が漏れ、八方塞がりの福島第一原発。いち早く現地に入り、取材活動を続けている記者のヨーコさんが避難者たちの生々しい証言を寄稿してくれた。証言をしてくれた人の中には東電の下請け作業員もいて、その言葉は重い。
ヨーコさんが避難した人々の話を聞いたのは福島第一原発からわずか21.6キロしか離れていない避難場所、川内中学校だ。
証言者A(東電の下請作業員 4号機タービン建屋作業員 50代ぐらい 川内中学校避難所にて)
「原因は津波でも地震でもなんでもない。老朽化が原因だ。
満潮や干潮の時期には、海水が地下二階のフロアーに漏れ出すような、酷い状態だったが、東電はあと10年は運転させると言っていた」
証言者B(東電下請け作業員 (4号機タービン建屋) 38歳 川内中学校避難所にて)
「震災時は地下1階で作業中でした。4号機は運転を停止していて、点検作業中でした。
慌てて逃げたんですが、作業員は4号機に何千人もいます。その人数が一気に出口に殺到し、6つしかないゲートに殺到していたから、4号機を出るまでに3〜40分ぐらいかかりました。運転を停止し、点検をしていた4号機までこんなことになるとは......。東電社員はミサイル攻撃にも耐えられると言っていましたし、車の幅ぐらいもあるコンクリート壁が、あちこちにあるので私たちもその言葉を信じていました」
証言者C(東電作業員(詳しい役職は不明) 50代 川中中学校避難所にて)
「どうやってここまで来た?」と筆者に聞くC氏、私がガソリンの予備タンクを2つ用意したことを伝えると......
「そのタンクをいくらで売る? そのタンクを売ってくれたら、こんな所からオレはとっとと逃げ出すよ。
ここの避難所の人間は東電関係者しかおらんよ。この村も周辺一帯の村も、東電しか仕事がないから。事故の原因は老朽化が原因だと、絶対に書いておいてくれ!!」
証言者D(年金生活者 (福島第一原発の元労働者) 70代 川内中学校)
「老朽化した原子炉を建て直すコスト。すなわち廃炉にした原子炉の放射能を何万年も封じ込めるコストと、新しい土地を確保し、新たな原子炉を建てるコスト。ゴミのように移動させて捨てる訳にはいきませんから、建て直すにはこの二つのコストがかかる訳です。
点検と補強を繰り返し、村に金を落とし、住民を潤し、議員を丸め込むコストの方が、圧倒的に安かったということです」
証言者E(年金生活者の老人 詳細不明 川内中学校)
「考えてもみなさい、30年前、40年前のテクノロジーで出来た建造物ですよ。30年前、40年前のテレビにリモコンが出来ただけでも画期的な技術だったでしょう。でも今となってはたかがリモコンでしょう? あの原子炉はその程度の技術でしかないんです。そんな技術で作った原子炉、老朽化した原子炉が壊れない方がおかしくないか?」
証言者F(詳細不明 50代 川内中学校)
「ああ、この避難所にも東電社員は一人いるよ。女だけどね。でも、インタビューしたって無駄だよ。なんにもしゃべらないだろうね」
証言者G(息子が東電で働いているという女性 60代ぐらい 川内中学校)
「インタビューにはお答えできません。うちの家族はみな東電で働いているんです。お世話になっている会社の内情をお話しすることなんて出来ないでしょう?インタビューはお断りします!!」
(※周りの方の情報によると、彼女の息子は13日の時点で、第一原発内で作業をしており、まだ避難できていなかったとのこと)
証言者H(東電孫請け作業員 31歳 4号機タービン建屋 川中中学校)
「タービン建屋は地下2階まであります。地下一階の踊り場のような所で地震に遭いましたが、壁に背をもたせてへばりつき、踏ん張らないと立っていられない、そんな揺れが2分ぐらい続きました。
逃げるどころかその場にいることしか出来ない。崩れ落ちる粉塵状態のコンクリート片の中、停電はしていましたが、車ぐらいの大きさの配管が、1メートルぐらいの幅で揺れていました。
うちの親父もここで働いていますが、初めての出来事だと言っています。
仮設電源も機能せず、懐中電灯で煙のような粉塵の中を、退路を探していた時にも地震がありました。偶然仲間を見つけ一緒に待避しましたが、靴を脱ぐべき所、作業着を脱ぐ場所などが、本来は事細かに決められているのですが、何千人かの靴や作業着が散乱している中、それらを踏み分けて、まずは"退出モニター"のゲートを通りましたが、横で東電社員が「認証は行わずに出られます」と、避難誘導を行っていました。しかしゲートの数が圧倒的に少なすぎ、雑踏のなかで列は全く進まず、6つしかない回転式のゲートをくぐり抜けて、ゲートの右手上階にある、更衣所で私服に着替えるまでに、30分ぐらいはかかったと思います。ゲート左手の一階にある更衣所にロッカーを持っている人は、もっと早く退出できていたと思います。階段に人が殺到してとにかく混乱していました。あとで聞いた話によると、筋彫りの入れ墨の人が、パンツ一丁で逃げてきたという話もある程です(笑)。
今の段階では(3/14の20:00頃)、今回の爆発はそんなにビックリすることはない、チェルノブイリとは違いますから。
避難所で今の原子炉の状態をこんな例え話で説明する人もいます。袋に入ったまんまのあんパンを、電子レンジで温めすぎると、袋が破裂してしまいますが、中のパンは破れておらず、あんこが飛び散ってもいない。要するに燃料棒のある格納容器がまだ破れていないから、あんパンのあんこがチェルノブイリとは違うということです。
だからここにいる友人達には、もう少しここで様子を見てみよう、電話は全く繋がらないけれども、
一応の食料はある、暖房もある、風呂は無くとも水はある。ライフラインの復旧していない他の避難所に行くのは、生活のレベルが低下する恐れもあるからと、話し合っています。
それに放射能のレベルも、今はまだマイクロシーベルトの単位でしかありません。僕たち作業員は1日で100マイクロシーベルトを浴びることもありますが、今のところはまだマイクロの単位でしかありません。距離で言えばメートル単位とキロ単位の違いですから。なので、僕はまだ少し楽観視しているのです。
でも、1号機と3号機の爆発を止められなかった、そして2号機の水位もまた同じように危険な状態になっていますよね。2号機は明日中に爆発するでしょう。何時とは言えませんが明日であることは間違いないと思います。なぜなら、1号機と3号機で失敗してしまった、同じ方法を用いて、2号機を制御しようとしているからです。失敗するのは目に見えていますよ。良くも悪くも言うつもりはありませんが、東電には頭のいい人が揃っているのに、全く同じ方法で爆発を止めようとしている。結果は火を見るより明らかですよ。(翌日の早朝 3/15未明、H氏の予測は的中した)
彼らのやっていることは、最小限の対応で最大限の爆発を起こしたようなものです。
何らかの形で建屋に穴を開け、多少放射性物質が漏れても、圧力を逃がすべきだった。前もってこれこれこういう方法で穴を開けます。それに伴い放射能が漏れますが、大爆発を防ぐための処置であり、この非常事態には致し方ありませんと、事前に世間に公表して、穴を開けていたならば、地域の住民も理解し納得していたでしょう。あんな爆発を起こすこともなく、こんな世界的なニュースになることもなかったはずです。放射能漏れのニュースにしかならなかったでしょう。完全なメルトダウンを起こしたチェルノブイリとは違うんですから。東電は被害を最小限に抑えるよりも、水素で爆破するまで放置したといっても過言ではない。先に穴さえ開けておけば......と、本当にそう思います。遅かれ早かれ爆発するのなら、もっと早く開放した方が良かった。
老朽化の問題は確かにあります。構内で(地震前から)地割れしているところもあった。4号機の地下二階で、海水が染み出しているのも、貴女が仰るとおり事実です。第二原発では放射能を浴びない場所でも、第一原発では浴びました。第一の方が古いからです。こう言ったことを、東電は公表すべきだと思います。
今の心配事は、いつまでここにいるのか? ということでしょうか。ストレスで役場の人や消防、この学校の教頭とケンカになる人もいる。オレだって被災者だと教頭は言ったそうですが、家があるだけマシ、仕事があるだけマシですよ。
今のところは3食おにぎりが一個ずつ配られています。川内村の炊き出しもたまにありますが、豚汁を作ってもらっても、皆に行き渡る量はお玉に一杯分です。毎日食べれるのかという不安もありますね。水はありますが、お風呂はありません。衛生面も心配ですし、放射能の不安、帰れないことによる孤独感。家を失い、仕事を失い、家族の安否も解らない人ばかりですから、皆、何重もの絶望感の中で過ごしています。
この避難所にも前は1000台近く車が止まっていました。でも、今はかなり減っています。もっと安全な所へという気持ちからでしょうが、野宿になるぐらいならここにいようかと考えています。ここを一度出てしまえば、他の避難所が気に入らないからと言って、舞い戻ってくることは出来ないからです。
それにガソリンも不足していますから、どこまで行けるのか不安もあります。
4号機で被災して、自宅に戻りました。原発から10キロぐらいの所の自宅ですが、思った程損壊はなかった。家族全員が無事で自宅に戻ってきたのですが、翌日全員が避難しました。
今後の仕事に対する不安はあまりない。いつ帰れるのかという焦りだけです。いつまで休んでいいのか、原発の避難勧告の解除があれば、すぐに仕事に行きたい。現場をみてみたいです。
でもしばらくは仕事もないだろう。足場解体や片付けの仕事はあるでしょうが......。再開したならば耐震性に関する仕事は増えると思います」(取材・文 ヨーコ)
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追加記事ー2011年4月7日
讀賣新聞記事情報 [編註:インタビューに応じているのが広報である点に注意]
原発泊まり込み作業員「厳しいが士気は高い」
(2011年4月3日03時04分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110402-OYT1T00907.htm
東京電力福島第一原子力発電所に泊まり込み、本店との調整に当たっている同原発広報部の角田桂一・報道グループマネジャー(42)が2日、読売新聞の電話取材に応じた。
一時不足していた放射線量を測る線量計は920個を確保したといい、食事も1日2回から3回に増えている。角田さんは「環境は整えられつつあるが、依然厳しい」と語った。
線量計が足りなかった問題は、発覚した直後の1日に、東電柏崎刈羽原子力発電所(新潟県)から500個を調達するなどし、解消したという。食事の回数も増えたが、非常食や缶詰というメニューは変わらず、「量的には問題なくなったが、メニュー不足は否めない」。
泊まり込みで作業にあたっている約400人のうち100人程度は約10キロ離れた福島第二原発の施設に宿泊できるようになった。それでも第一原発で作業員らの就寝場所となっている免震重要棟の「緊急時対策室」に入りきらず、廊下で寝る人もいる。
「睡眠は十分とは言い難いが、報道で激励の声が届くことが支えになっており、士気は高い」と話した。
ラベル:原発震災
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