2010年03月01日

[TUP速報846号] エルスバーグが語る同志ハワード・ジン

Date: Mon, 01 Mar 2010 23:28:16 -0000
Subject: [TUP-Bulletin] 速報846号 エルスバーグが語る同志ハワード・ジン

「政府が戦争を止めないなら、われわれが政府を止めよう」
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2010年1月27日、ハワード・ジンが亡くなった。87歳だった。常に弱者の
側に立ち、強者の目線から語られがちだった歴史を民衆の立場から読み直す
ことを提案したラディカルな歴史家。歴史を作る民衆のひとりとして、自身
も反戦反核、人権擁護の最前線に立ち続けた活動家でもあった。知らせを聞
いた直後の、まだその死を実感すらできぬうちに、盟友ダニエル・エルスバー
グが長年の同志ハワード・ジンの思い出を語った。

[筆者紹介] ダニエル・エルスバーグは著者、活動家、教育者、ランド研究
所の元米国軍事アナリスト。1971年、ニューヨークタイムズ紙にペンダゴ
ン・ペーパー[1]を公開した。2009年10月に公開された回顧録的ドキュメ
ンタリー映画 " The Most Dangerous Man in America: Daniel Ellsberg and
the Pentagon Papers "(『アメリカで最も危険な男――ダニエル・エルスバー
グとペンタゴン・ペーパー』)は、2010年度アカデミー賞長編ドキュメンタ
リー部門にノミネートされている。

凡例 [訳注]は文末をご覧ください。(翻訳・訳注:藤澤みどり)

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ハワードの思い出
2010年1月27日
ダニエル・エルスバーグ


友人のハワード・ジンが今日死んだと、たったいま聞いたところだ。つい今
朝方、わたしは2月に公開になる、特にかれと、かれの著作に登場する人物
たちを中心にしたドキュメンタリー [2] についてボストン・フェニックス
紙のインタビューを受けていた。インタビュアーがわたし自身のヒーローは
だれかと聞いたので、なんのためらいもなく答えた。まず第一に「ハワード・
ジンだ」と。

ほんの数週間前、そのドキュメンタリーを見たあと、わたしは、かれがわた
しにとってどんなに大切な存在かを、まだかれに言ったことがなかったと気
づいた。そう考えたことを、生まれて初めてわたしはタイミングよく行動に
移した。かれに電子メールを送り、他の人たちには折りにふれ言ってきたこ
とを特に伝えた。「わたしに言わせれば」、ハワードは「わたしが知ってい
るなかで最良の人間だ。人が何になれるか、また、人生で何ができるかの最
良の例だ」と。

わたしたちが初めて会ったのは1971年初頭、ボストンにあるファニエルホー
ルで、イクバール・アフマド[3]とフィル・ベリガン[4]が「ヘンリー・キッ
シンジャー誘拐を共謀」[5]したとして起訴されたことに反対し、わたした
ち二人ともがスピーチをしたときのことだ。わたしたちは大勢の群衆ととも
に、市民逮捕[6]を実行するためにボストンのFBI事務所まで行進した。その
春遅く、わたしたちは志を共にする仲間たち(そのなかにノーム・チョムス
キー、シンディ・フレデリックス、マリリン・ヤング、マーク・プタシュネ、
ゼルダ・ガムソン、フレッド・ブランフマン、ミッチ・グッドマンがいた)
と、ワシントンの交通を麻痺させるメーデーの示威行動に出かけて行った
(「政府が戦争を止めないなら、われわれが政府を止めよう」)。ハワード
はドキュメンタリーのなかでそのときのことを語っていて、わたしも自分の
回顧録、『機密――ベトナムとペンタゴン・ペーパー回顧録』のなかで、か
なりのスペースを割いてそれについて書いた。しかし、ハワードが、デモと
連邦政府ビルの封鎖のためにボストンに戻ってきたあとの項は(ハワードは
わたしたちのほとんどが他の場所に移ったあと、ワシントンD.C.で逮捕さ
れていた)、紙数の関係で割愛しなければならなかった。このときの話はま
だどこにも発表したことがないが、草稿だけで印刷物にならなかった部分を
以下に記そう。

*   *   *

その翌日、ハワード・ジンはボストンコモンで開催された大きなデモで、最
後にスピーチに立った。わたしは大群衆の後方で、拡声器を通したかれのス
ピーチを聴いていた。そのとき、かれが話したことを、27年後のいまでも
全部ではないが思い出せる。「メーデーにワシントンで、何千人もの人々が
平和を乱したとして逮捕されました。しかし、平和などあるものか。実のと
ころ、われわれは戦争を妨害したかどで逮捕されたのです」

かれは続けた。「もしもトーマス・ジェファーソンとアレクサンダー・ハミ
ルトン[7]がジョージタウンの通りを昨日歩いていたら、かれらは逮捕され
ていたでしょう。若さゆえに逮捕されたでしょう」

スピーチの最後にかれは言った。「わたしはいま、聴衆のなかの幾人かに言
いたい。われわれのあいだに混じる私服警官諸君、われわれの監視を任ぜら
れた軍の情報官諸君。きみたちは同胞のアメリカ人をスパイする秘密警察の
役を演じています。きみたちは、いまやっているようなことをすべきではあ
りません。考え直し、やめるべきです。きみたちは、アメリカ人であること
の本質に反するような命令に従う必要はないのです」

結びのところはかれの言葉そのままではないが、かれの話の真髄はこういう
ことだった。翌日、ボストンの連邦政府ビルの封鎖で、わたしたちが肩を並
べて座り込みをしていたときに、このスピーチの代償をかれは支払うことに
なった。わたしたちは肩を組んで人間の鎖で建物をぐるりと取り囲んでいた
ので、わたしたちをまたがない限り、だれも建物に出入りできなかった。わ
たしたちの背後には、応援しているけれど逮捕される危険を冒すことまでは、
まだ決めていない群衆がいて、ポスターを持っていた。わたしたちの前には、
建物の正面玄関にわたしたちを近づけないようにと警官たちが並び、その背
後には一大編成の警官隊が控えていた。警官はみな、ヘルメットに付いた大
きなプラスチックの顔面カバーを頭の方に上げていて、長くて黒い警棒を持っ
ていた。100センチ以上もの長さの野球のバットみたいなやつだ。後に法律
家に聞いたところでは、都市部の警官の規則によると、そのような長さの警
棒は使用を禁じられているそうだ。

でも最初のうち、警官との関係はおおむね友好的だった。わたしたちは厚顔
にも玄関を守っている警官のすぐ近くに座り、鎖を人で埋めていき、建物の
横から先は視界から消えていた。やがて、建物の後ろ側から来ただれかが拡
声器を使って「封鎖は完了した。われわれはビルを完全に取り囲んでいる!」
と告知した。背後の群衆から歓声が上がり、さらに多くの人々が、人間の鎖
が二重、三重になるまで座り込みに加わった。

連中が逮捕し始めるとわたしたちは予想していたが、しばらくのあいだ、警
官は何もしなかった。人間の鎖を力づくで断ち切って通り道をこしらえ、職
員が建物に出入り出来るようにもできたのに、どういうわけか何もしなかっ
た。連中がわたしたちの抗議に本当は共感し、そして、これは連中なりの抗
議への参加のしかたなのかもしれないとわたしたちは考えた。午前中がその
ようにして過ぎるうちに、人々はりんごやクラッカーや瓶入りの水をポケッ
トやリュックサックから出し、周りの人と分けあい、そんなときはいつも前
に立っている警官にも勧めた。警官は決まって断ったが、申し出には感謝し
ているように見えた。

やがて、ひとりの警官がハワードのところにやって来て言った。「あなたは
ジン教授ですよね」。ハワードがそうだと答えると、警官は手を差し出して
熱を込めて握手をした。警官は言った。「あなたの講義を警察学校で聞きま
した。ここにいる連中の多くが聞きました。あれは素晴らしい講義だった」。
ハワードは、アメリカ史における異議表明と市民的不服従の役割について話
すように頼まれたのだった。数人の警官がハワードに敬意を表しにやってき
て、講義への感謝を述べた。雰囲気はワシントンとは確かに少し違うように
思われた。

それから、ネクタイを締めて上着を着た、あるいはワンピースを着た職員が
列になって建物から出て来た。かれらの腕は高く挙げられ、その手にはカー
ドが握られていた。かれらは、わたしたちの輪に沿って通り過ぎるとき、自
分たちが政府の職員であることを示すIDが見えるように、こちらに向けてカー
ドを差し出した。かれらはもう片方の手でピースサインを作り、わたしたち
がやっていることへの連帯を表すために建物の周囲を回った。かれらの代表
が拡声器越しに言った。「われわれもこの戦争には終わってほしい! あな
たがたの行動に感謝します。どんどんやってください」。警官側も含めたカ
メラマンたちが先を争って職員たちを撮影すると、何人かは写真に写るよう
にIDカードを掲げた。これがその日のハイライトだった。

職員たちが建物の中に戻っていった少し後で、警官の雰囲気ががらりと変わっ
た。命令が下されていた。広場の中央にいた警官の一団がきっちりと隊列を
組み、ヘルメットのプラスチックカバーを下ろした。わたしたちのすぐ前に
のしかかるようにして立っていた警官は、体を真っすぐに起こし、制服を調
整し、顔面カバーを下ろした。明らかに逮捕が始まる時が来た。逮捕された
くない支援者たちは後ろに下がった。

しかし、逮捕の警告はなかった。笛が鳴って、警官の隊列がにじり寄るよう
に前進し、黒い警棒がまっすぐ上に持ち上げられた。警官たちは肩を組むわ
たしたちのあいだに割って入るか、わたしたちにのしかかるか、あるいは後
退させようとした。わたしたちの前にいた男、ちょっと前にハワードに講義
について話した男が声をひそめてわたしたちに言った。「逃げろ! いま! 
早く、立って」。威嚇ではなく警告だった。

ハワードとわたしは互いを見た。わたしたちは逮捕されるつもりでここに来
た。だれかがそう言ったからといって、逮捕されてもいないのに、ただ立ち
上がって移動するのは正しくないように思われた。わたしたちはそれまでい
たところに、そのままいた。だれも動かなかった。警官のブーツがわたし
たちの靴に当たっている。かき口説くような小声が頭上から聞こえてくる。
「動いて! どうか。頼むから、動いてくれ!」。制服に包まれた膝がわた
したちの膝に押し付けられた。警棒が振り下ろされるのが見えた。わたしは
手を頭に置き、拳を固めた。そして1メートルの警棒がわたしの手首を打っ
た、強く。もう一発は肩を打った。

わたしは転がり、腕で頭を被ったまま、立ち上がって数メートル後ろに下がっ
た。ハワードは数人の警官に引きずられていくところだった。ひとりはハワー
ドの腕を背中に回して押さえつけ、別のひとりは彼の髪をつかんで頭をぐい
と後ろに引っ張っていた。だれかがかれのシャツを二つに引き裂いていて、
裸の胸には血が付いていた。ほんのちょっと前までかれはわたしの隣に座っ
ていたのだから、わたしも同じことをされるものと思ったが、だれもそうし
なかった。ハワード以外の逮捕者はひとりも見なかった。でも、だれももう
座ってはおらず、人の列は崩れ、鎖は崩壊していた。座り込みをしていた者
はそれほど遠くへは移動せず、わたしと同じように数メートル下がったとこ
ろに立っていて、周囲を見回し、それぞれ警棒で打たれたところを抑えてい
た。警官は動きを止めていた。隊列を作り、ヘルメットのカバーは下ろした
ままで、警棒を自分の平手に打ち付けていた。かれらのアドレナリンは依然
として上昇したままだったが、警官たちはその場に立ち留まっていた。

わたしの手からは血が流れ落ち、手の甲を被った。わたしは分厚い腕時計を
はめていて、それが一撃されていた。警棒が時計のガラスを打ち砕き、破片
がわたしの手首にくい込んでいた。血は指から滴り落ちていた。だれかが手
首を包むハンカチをくれ、腕を高く挙げるように言った。ハンカチはたちま
ち血まみれになり、群衆の背後の広場の角に設けられることになっていた救
護所を探しているあいだ、血が腕を滴り落ちていた。やっと救護所を見つけ
ると、だれかがわたしの腕からガラスの破片を抜き出してくれ、ぐるぐると
包帯を巻いてくれた。

わたしは抗議行動に戻った。肩には痛みがあった。警官たちは止まったとこ
ろにそのまま立っていて、封鎖は再編成され、人々は前にいたところから10
メートルほど後退した場所に座り込んでいた。人数が減るどころか、前より
もっと多くの人が座り込んでいるように見えた。支援者たちの多くも参加し
ていたのだ。しかし、静かだった。だれも大声で話さず、だれも笑っていない。
人々は警官が再び前進してくるのを待っていた。逮捕されるかどうかは、も
う気にかけていなかった。

さっきはほんの3、4 人が抗議の列から引っ張りだされて逮捕されただけだっ
た。(後でわかったが)警察は、わたしたちが逮捕や裁判を宣伝に使う機会
を与えないように、「指導者」だけを逮捕することを決定していた。ハワー
ドはこの行動のオーガナイザーではなく、他のみんなと同様にただ参加して
いただけだったが、警官たちがかれを列から引きずり出したときの扱い方か
らして、前日、デモのなかにいた警官たちに直接向けられたかれのスピーチ
が、だれかの神経を逆撫でしたに違いなかった。

ハワードとわたしがさっきまでいた場所と直角をなす側の列に、ハワードの
奥さんのロズ・ジンが座っているのを見つけた。わたしは彼女と、それから
夫妻の同居人で彼女と同じ年格好の女性の間に座った。彼女たちは、ハワー
ドに起きたことを目にするまでは後ろの支援者のなかにいた。

隊列を組む警官たちの制服と警棒、腰につけた銃を見ながら、わたしは裸に
されたような気持ちだった。武器を持っているがゆえに守られていると考え
るのは戦闘時の錯覚だとわかっていたが、効力のある錯覚だった。そのとき
初めて、自分が無防備だと強く意識した。海兵隊が言う、いわゆる「農村祭
り(カウンティフェア)」[8]の際にベトナムの村人が感じたであろうこと
を、ついにわたしは、自分の国で、理解した。そういうとき、海兵隊は子ど
もたちにお菓子を分け与えたり予防接種したりする一方で、隊員が集落で見
つけた者はだれでも、徴兵年齢あるいはベトコンになれる年齢の若者ではな
い女も子どもも老人までも残らず駆り集めて、テントの中でひとりずつ尋問
するのだ。心をつかんで密告者を増やそう。戦闘装備を身につけた兵士が次
に何をするか、だれが拘束されるか、農民のだれも知らないのだ。

わたしたちは座り、語らい、警官が再び向かってくるのを待った。かれらは
ヘルメットのカバーを下ろし、隊列を整えた。いっしょにいた二人の女性は
両方ともわたしより年上だった。わたしは最初の一撃を受け止めようと、彼
女たちの前に体を移動した。わたしの肘に手がかけられるのを感じた。「す
みませんが、そこはわたしが座っていたところです」と、ジン夫妻と同居し
ている女性が冷ややかな目つきで言った。その日、そこに行って座り込みを
したのは私に守られるためではなかったと彼女があとで語った。わたしは謝
り、彼女たちの後ろに引き下がった。

だれも動かなかった。警官も動かなかった。かれらはプラスチックのカバー
で顔を被い、隊列を組んでわたしたちに相対し、かなり長いあいだ、そのま
ま立っていた。しかし、再び前進しては来なかった。5時が過ぎて退社する
職員のために警官たちは通り道を作ってあり、やがて警官は去り、わたした
ちも退去した。

*   *   *

もっと幸福な話をしよう、それから1カ月とちょっと後のことだ。1971年
6月12日土曜日の夜、わたしたち夫婦はハワードとロズといっしょに、ハー
バード・スクエアで『明日に向かって撃て』を見る約束をしていた。しかし、
その朝、ニューヨークタイムズ紙が前もって警告もしないで、わたしがかれ
らに渡した最高機密書類の掲載をその日の晩から開始すると、タイムズ紙の
人間に教えられた。つまり、そうなればFBIがいつわたしを尋ねてきてもお
かしくないし、特にその時は、徴兵制に反対して議事妨害をするマイク・グ
ラベル上院議員[9]に送ろうと思って、その書類のコピーがアパートにあった
のだ。

『機密』から(386ページ)

アパートからあの書類を持ち出さなければならなかった。いっしょに映画を
見に行くためにアパートに来ると予定していたジン夫妻にわたしは電話をか
け、代わりにわたしたちがニュートンにあるかれらの家に行ってもいいかと
尋ねた。わたしは箱に入れた書類を車のトランクに入れて持って行った。か
れらはFBIの注意を引くことを避けるためには理想的な人物とは言えなかっ
た。ハワードは、何カ月もFBIから逃れて地下に潜伏していた反戦活動家の
ダニエル・ベリガンの動向の管理を引き受けていたので、(つまり、その実
際的な見地から見ると、FBIから何かを隠すには理想的な人物だと言えた)、
たとえ継続的な監視下にはなかったとしても、かれの電話が傍受されている
ことは大いに考えられた。しかし、その土曜日の午後、私は、他のだれに助
けを求めていいかわらなかった。ともかく、わたしは機密文書の大部分を、
歴史学者として読み解いてもらうためにすでにハワードに渡していて、かれ
はそれをボストン大学の研究室に保管していた。わたしが予期したように、
かれらはすぐに承知した。ハワードは車から箱を運び上げるのを手伝ってく
れた。

わたしたちは映画を見るためにハーバード・スクエアに車で戻った。ジン夫
妻は『明日に向かって撃て』をまだ見たことがなかった。わたしたちみんな
が満足した。映画のあと、ブリガムのアイスクリームを買って、みんなでわ
たしたちのアパートに戻った。やがてハワードとロズは帰って行ったが、そ
のときはまだ、ニューヨークタイムズ日曜版の早版がスクエアの地下鉄のキ
ヨスクに到着する時刻になってはいなかった。真夜中ごろ、パトリシアとわ
たしはスクエアに出向いて2、3部買った。わたしたちは第1面に大見出しで
掲載された機密書類に関する記事を読みながら、ハーバード・スクエアへの
階段を上った。晴れ晴れした気持ちだった。

原文:A Memory of Howard
http://www.truthdig.com/report/item/a_memory_of_howard_20100127/


[訳注]

[1] ペンタゴン・ペーパー Pentagon Papers
ベトナム戦争に関する政策決定の歴史を分析した国防総省の最高機密文書。
故意の戦線拡大など歴代政権による「泥沼」戦争への道筋が記録されている。
元国務省職員のダニエル・エルスバークが暴露し、全7000ページの一部が
1971年6月ニューヨークタイムズ紙に連載された。

[2] ドキュメンタリー映画『The People Speak』
ハワード・ジンの著書『民衆のアメリカ史(原題:A People’s History of the
United States)』に登場する歴史上の人々の発言を、ジン自身のナレーショ
ンで有名無名の俳優や市民活動家などが朗読するパフォーマンスの記録。市
民権運動以降の歴史については実際の人物によるコメントなども収録されて
いて、エルスバーグも登場する。公開されるのは昨年のサンダンス映画祭で
上映されたフィルムの再編集版。ヴィーゴ・モーテンセン、マット・デイモ
ン(製作兼任)、ショーン・ペンなどが出演。
http://www.thepeoplespeak.com/
『The People Speak』のホームページ(英語)
http://www.youtube.com/watch?v=5qpm6aw5OWw
作品の一部が見られます。(英語)
この朗読会は、ハワード・ジンとかれの著作の編集発行人であるアンソニー・
アーノブが全米各地で開催していた市民による『民衆のアメリカ史』の連続
朗読会から着想を得たもの。アーノブはTUPが翻訳を担当し、昨年8月に岩
波書店より発行された『冬の兵士』の著作権管理者であり、発行人のひとり
でもある。

[3]イクバール・アフマド Eqbal Ahmad
インドに生まれ、アメリカで活躍したパキスタン人学者、活動家。専門は政
治学と中東史。エドワード・サイードが「政治方面の師」と仰いだ。的確な
分析により、発生の3年前に9/11を予言する講演、『テロリズム 彼らの、
そして、わたしたちの』を行った。著書に『帝国との対決――イクバール・
アフマド発言集』(デイヴィッド・バーサミアンとの共著 原題:Home
Commercans)など。1933-1999。

[4]フィル(フィリップ)・ベリガン Phillip Berrigan
生涯を反戦反核活動に捧げたアメリカの活動家、キリスト教アナキスト、カ
トリックの元司祭。ケイトンズヴィル事件[1968年、9人の活動家がメリー
ランド州の徴兵事務所から持ち出した400通弱の徴兵書類を手製のナパーム
で焼いた]他の破壊活動などにより、弟のダニエルとともにFBIの10人の最重
要指名手配リストに名を連ねていた。100回以上逮捕されて11年を獄中に過
ごし、亡くなる1年前に生涯最後の獄中生活を終えた。1923-2002

[5]ヘンリー・キッシンジャー誘拐の共謀
当時、ニクソン政権の国家安全保障問題担当大統領補佐官だったキッシンジャ
ーに対して、イクバール・アフマドとベリガン兄弟、他に4名のカトリック
聖職者が誘拐を共謀したとして告発された。59時間の審議の末、陪審員に
よって無効審理が宣言された。

[6] 市民逮捕
逮捕権をもつ職業にない一般市民が行使できる逮捕の権利。国によって多少
の違いがあるが、日本では刑事訴訟法213条により現行犯のみ逮捕状不要の
市民逮捕の権利が認められている。市民逮捕の一例として、英国人活動家、
ジャーナリストのジョージ・モンビオが、ブッシュ政権時に米国国連代表
だったジョン・ボルトンに対する市民逮捕を試み、未遂に終わった件を『デ
モクラシーナウ!』が取り上げている。モンビオはボルトンをニュールンベ
ルグ裁判で規定された国際法「平和に対する犯罪(侵略の罪としても知られ
る)」を犯した戦争犯罪人として市民逮捕しようとした。
http://www.youtube.com/watch?v=dHIyeglKxso&feature
なお、モンビオは現在、ブレア元英国首相の市民逮捕(罪状はボルトンと同
じ)を呼びかけており、市民逮捕を試みた者には(単なる金目当てであって
も)賞金を提供するとして奨励している。
http://www.arrestblair.org/

[7] トーマス・ジェファーソン、アレクサンダー・ハミルトン Thomas Jefferson,
Alexander Hamilton
ともに「アメリカ建国の父」の一人。アメリカ建国の父とは合衆国独立宣言
か合衆国憲法に署名した者、あるいはもっと広く独立戦争を戦った政治指導
者たちを差す。ジェファーソンは第3 代合衆国大統領、ハミルトンは合衆国
憲法起草者のひとり。

[8] 「農村祭り(カウンティフェア)」 “county fair”
本来は米国の農業地帯で開催される農作物や家畜の品評会を兼ねたお祭りを
差すが、ベトナム戦争で米軍が導入した「平定戦略」の作戦名になった。カ
ウンティフェア作戦。村を包囲して住人全員を尋問し、ベトコンとその協力
者を捜索した。子どもへの予防接種など友好的な行動をとる一方でベトコン
と疑われる若者等を殺害したり、住人を連れ去って村を焼き払ったりした。
なお、VVAW(反戦ベトナム帰還兵の会)は帰還後、恵まれない人たち、特
に南部の黒人が貧困のために満足な医療も受けられずにいることに着目し、
医療物資を支給したりワクチンを施したりなどする「カウンティフェア作戦」
と銘打った支援活動を実施した。

[9] マイク・グラベル上院議員 Sen. Mike Gravel
アラスカ州選出の民主党上院議員(当時)として徴兵制更新法に反対する議
事妨害を単身5カ月続行し、事実上の廃止に追い込んだ。ニクソン政権の妨
害にもかかわらず、エルスバーグから入手したペンタゴン・ペーパー4100
ページ分を上院小委員会でゲリラ的に読み上げて正式な議事録に記録、後に
出版にこぎ着け、一般市民が自由に読めるようにした。2008年、76歳で民
主党大統領候補に名乗りを挙げ、泡沫候補の扱いを受けたが、討論会でのオ
バマ等との論戦がyou-tubeなどネットメディアで人気を呼んだ。リバタリ
アン党に移籍。
http://www.mikegravel.us/
公式ホームページ(英語)
http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2007/05/post_9dcc.html
大統領選での討論の様子など(日本語)


*ジン、エルスバーグともに過去のTUP 速報に収録されています。
ハワード・ジンのTUP速報は
830号 http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/870
783号 http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/814
762号 http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/788
など多数。
ダニエル・エルスバーグのTUP速報は
845号 http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/887
838号 http://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/880

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電子メール: TUP-Bulletin-owner@yahoo.com

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http://www.tup-bulletin.org/modules/main/index.php?content_id=8

■『冬の兵士──イラク・アフガン帰還米兵が語る戦場の真実』
(TUP翻訳、岩波書店、2009年8月18日発売)
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■TUPアンソロジー『世界は変えられる』(七つ森書館)
JCJ市民メディア賞受賞!!
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■『世界は変えられるII』も好評発売中!!
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過去のTUP速報を読む:
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